川棚温泉:青龍伝説に秘められた深い物語

 平成13(2001)年、川棚温泉のすぐそばに舟郡(ふなごおり)ダムが完成し、青龍の伝説にあやかって「青龍湖」と名づけられました。

 

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青龍伝説

 遠い昔、とようらの地の奥深い森に囲まれた泉に、水の神様として一匹の青龍が住んでいました。

 青龍の住む泉はどんな日照りでも枯れることなく、青龍に与えられた清らかで豊富な水により、農作物は豊かに育ち浦々ではたくさんの魚がとれました。

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 しかし、ある時この地を大地震が襲いました。大地震は一夜にして青龍の住む泉を熱湯へと変え、山を崩し、泉を埋めてしまったのです。そして青龍も住む場所を失った悲しさから病気になり死んでしまいました。

 青龍と泉を失った村では長く日照りが続き、作物は枯れ、人々は病気に苦しみました。困った村人達は、青龍を祀るための社をつくり、この土地の守り神として人々の生活を守ってくれるよう祈り続けました。

 そんなある日、村人が青龍の住む泉のあった場所に畑をつくろうとして地面を掘ると、そこから温泉が湧き出したのです。

 不思議なことに温泉の湯を浴びると、それまで病気で苦しんでいた人たちは元気になったといいます。

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 しかし、その後月日はめぐり温泉が枯れてしまうと、青龍のことも人々の記憶から忘れられようとしていました。すると応永年間(1394~1427)、再びこの地を日照りと疫病が襲いました。

 川棚を見下ろす小高い山の中にある三恵寺の住職であった「怡雲(いうん)和尚」は、厄災に苦しむ人々を助けたい一心で仏に祈り続けました。

 そんなある晩、怡雲和尚の枕元に薬師如来が現れました。薬師如来は枕元で、和尚にこの土地に住む青龍の伝説と人々の病気を治した不思議な温泉の物語を告げました。

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 怡雲和尚は薬師如来の霊告をもとに、忘れられていた温泉を再び掘り返す決心をし、周辺の村人の協力を得て作業に取りかかると、見事に温泉を掘り起こしました。

 青龍の伝説と薬師如来の霊告のとおり、その温泉の湯を浴びると人々の病気は次々に回復したといいます。

 再び平穏を取り戻した村人たちは、温泉がもう二度と枯れないように伝説の青龍を温泉と村の「守護神」としてお祀りすることを決め、祈りを欠かさないようつとめました。

 

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以来、数百年の月日が経ちますが、今も青龍の伝説は語り継がれ、青龍権現(松尾神社)に守られた温泉は枯れることなく沸き続けているのです。

松尾神社は、京都右京区松尾に御鎮座の元官弊大社松尾神社より、天正年間(1573〜1592)に当所守護神として御分霊を勸請奉斎しました。

当社一名青龍権現と称せしときもあり、温泉の源に住みし青龍を併せ祭ったとも云う。

 

所在地  下関市豊浦町川棚湯町

交通   JR山陰本線 川棚温泉駅からバス4分「川棚温泉」下車、すぐ

     下関 I.Cから車で32分

     小月 I.Cから車で27分

問い合わせ 川棚温泉観光協会 083-772-0296

蚕種祭

 今から約1800年の昔、中国から秦の始 皇十一世の子孫功満王(こまおう)が来朝帰化し、ここ豊浦宮(とよらのみや) にご滞在の仲哀天皇に蚕種(カイコの卵)を 献上したのが、我が国養蚕の始まりと伝えられています。

そこで異邦蚕種が我が国に初めて渡来して天皇に献上した地であることを記録し、後世に伝えるために、生糸の輸出が最も盛んであった昭和八年(1933)十二月に全国からの多額の奉賛金によって忌宮神社境内の現在地に養蚕関係者によってこの碑が建立されました。

 

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 『蚕種渡来之地』の碑文に、

 謹みて考えをめぐらすに、人皇第十四代仲哀天皇即位二年(193) 天皇の熊襲征討のため穴門國豊浦津に行幸あらせられ此の地に皇居を奠(さだ)めなさる之を穴門豊浦宮(あなととよらのみや)と名付けて申し上げる、今の山口縣豊浦郡長府町鎮座國幣小社忌宮神社の神域は即ち其の旧跡なり。

 三代実録によれば、仲哀天皇即位四年(195)に奏の始皇十一代の孫功満王(こまおう)が渡来して日本に住みつき珍しい宝物である蚕(かいこ)の卵を奉献したと云う、是れ異国の蚕の卵が初めて我が國へ渡来したことを証明する文献であって、しかも其の地は実に此の神域に外ならず、近頃山口県蚕糸業者並に有志者ともに思案し此の由緒ある地を記念しこれを後世に伝えんがため、ここに碑を建て其の由来を書きしるす 。

と記されています。




 

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 碑の高さは約六・三メートル、重さ約三十七・五トンで、自然石では山口県一を誇り、毛利家が外浦に置いていた秋穂産の大石を利用しました。

 題字は大日本蚕糸会々頭牧野忠篤、碑文は大日本蚕糸会山口支会長菊山嘉男知事で、昭和八年(1933)十二月二日忌宮神社宮司松島浅之助以下全神職の奉仕により盛大に除幕式が執り行われました。

 仲哀天皇四年(195)、秦の始皇帝から十一代の孫にあたる功満王(こまおう)が来朝したとき、蚕種をここ、豊浦宮(とよらのみや)で献上したという伝承があり「蚕種渡来の碑」の前で、毎年三月二十八日に、蚕種祭が行われ、昭和五十六年(1981)から毎年、生糸つむぎと機織りの実演が披露されています。

 

 日本三代実録(にほんさんだいじつろく)は、平安時代の日本で編纂された歴史書で、延喜元年(901)八月に完成した。六国史の第六にあたる。

清和天皇、陽成天皇、光孝天皇の三代、天安二年 (858) 八月から、仁和三年 (887) 八月までの三十年間を扱う。

編者は藤原時平、菅原道真、大蔵善行、三統理平。

途中、菅原道真が失脚して大宰府に左遷され、三統理平は転任して編纂から外れた。完成を報告したのは、藤原時平と大蔵善行の二人であった。

編年体、漢文、全五十巻。

 

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「三代実録」に、「仲哀四年(195)に泰の功満王(こまおう)が帰化入朝し、珍宝蚕種等を献じ奉った」とあります。

この記録は外国から我が国に蚕種が入ったことを示す最も古いものでしょう。

 仲哀四年(195)といえば天皇は穴門国豊浦津(現山口県下関市長府)で治世していました。そのときの仮皇居跡はいま忌宮神社の神域となっています。

 

出典  フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

参考文献 下関市教育委員会『下関の記念碑』山陽地区篇

 所在地  下関市長府宮ノ内町1-18

 交通   JR長府駅からバス7分「城下町長府」下車、徒歩5分

      JR下関駅からバス23分「城下町長府」下車、徒歩5分

 問い合わせ 忌宮神社 083-245-1093




重要文化財(旧国宝)厚母大仏

下関市豊浦町厚母安養寺に安置されている大仏は旧国宝であって、右手は手の平を前にして屈し胸、左手は手の平を上にしてひざにおき、両手とも第一指と第二指の先を接して「上品下生(じょうぼんげしょう)」という印を結んでいる木造阿弥陀如来坐像です。
像の高さは八尺八寸八分(296.1センチメートル)の丈六仏(じょうろくぶつ)です。丈六の仏像とは、一丈六尺の仏像のこと、坐像の場合はその半分八尺の仏像です。

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この大仏は由縁(ゆえん)において詳細を欠くが、伝えるところによると聖武天皇の天平十三年(741)に国状不安を鎮撫(ちんぶ)するために、国毎に国分寺(こくぶんじ)とともに、国分尼寺(こくぶんにじ、こくぶにじ)が建立された。

正式名称は国分寺が金光明四天王護国之寺(こんこうみょうしてんのうごこくのてら)、国分尼寺が法華滅罪之寺(ほっけめつざいのてら)であった。

 長門は、古くは穴門(あなと)と呼ばれ、穴戸と書くこともあった。

穴門とは海峡 (関門海峡)を指しており、日本神話にも「穴戸神」の名が見える。

穴門国造(くにのみやつこ)の領域と、阿武国造(くにのみやつこ)の領域をあわせて、7世紀に穴戸国が設置され、7世紀後半に長門国に改称した。

 国府は豊浦郡にあって、現在の下関市長府宮ノ内町の忌宮神社の近辺と推定されるが、遺跡はまだ見つかっていない。

国分寺は、長門の国府(長府)のそばに置かれ、国庁とともにその国の最大の建築物であったものとおもわれる。

 

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この国分寺境内には四十九院の寺々があって、「国分寺古跡由来書」によると、その中で安養寺及び極楽寺を以て長門国中の諸末寺に主君・官府などの裁定。指図。指示。また、それを伝えた。

「豊府志略」の国分寺の条に境内西方の安養寺を以て奥の院とす。とあるから国分尼寺の奥の院であった。

国分尼寺は光明皇后の発願によって創建されたものであるが、その後律令体制が弛緩(しかん)し、官による財政支持がなくなると、衰頽(すいたい)して廃寺となった。

 長府功山寺の開基基智門寺殿功山玄誉大居士(法名)が安養寺の寺号を厚母に遷(うつ)し小刹(さつ)を再建された。

(慶安三年 (1650)十月三日毛利秀元死亡 法号「智門寺殿功山玄誉大居士」以後世々毛利家の香華寺となり、功山寺と改称。)

 

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 この大仏は、国分寺の奥の院、安養寺の本尊であったが廃絶したため吉母の東向坊(安養寺の末寺)に遷(うつ)され、そのあと東向坊も廃絶して、一時露座(ろざ)仏となっていた。

 この大仏は本那六大仏の一つであって坂上田村麿の祈念(胎内背に田村将軍祷念佛の墨書銘文あり。)であり、名匠春日の作と伝えている。

坂上田村麻呂 (従四位下)は、延暦十五年(796)十月二十七日鎮守将軍を兼ねているから、国家鎮護のために要衝(ようしょう)の地に大刹(さつ)を選び大仏を安置したものであろう。

 その後蒙古が頻りに長門の海辺を窺うにあたり鎌倉幕府は北浦海岸の防備を固めると共に国分寺内四十九院の寺々で外敵降伏国土安穏の祈祷が行われた。

その当時までは安養寺は長府の国分寺境内奥の院であったものである。

東向坊に遷(うつ)された年代は不明である。

 昭和四年(1929)四月官報発表文部省告示第一七九号を以て国宝に指定され、

同十年(1935)四月に修理が行われた。

 

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境内地の解説掲示を記す

国指定重要文化財

厚母大仏(木造阿弥陀如来坐像)

昭和二十五年(1950)八月二十五日指定

    豊浦町厚母郷 宗教法人 安養寺 所蔵

 厚母大仏は、昭和四年(1929)に文部省告示で国宝に指定され、昭和二十五年(1950)、文化財保護法の施行により重要文化財に指定された。

  像高八尺八寸八分(296.1センチ)のいわゆる丈六仏(丈六、半丈六の仏像とは、各一丈六尺又は八尺の仏像のことである 。坐像の場合はその半分即ち八尺或は四尺の仏像が夫々丈六或は半丈六である。)で、近郷では「厚母の大仏」「安養寺の黒仏」と称されている。

 内りを施した楠材の寄木造りで、現在は古色塗りを施す上品下生の印(親指と人さし指で輪を作る。右手が胸、左手ひざ。)を結ぶ通形の如来坐像である。

この特徴の一つに膝張りと膝高との関係がある。

古像ほど膝が高く、膝高を一とすれば、膝張り五であるが、時代が下がると膝高が低くなる。

木像の膝張り( 226.3cm)と膝高(41.8cm)の割合は、膝張りに対し膝が低くなっている。

これは大仏であるために下から仰ぐと、頭と膝の均合いがくずれてしまい、頭がより小さく映ることを防ぐ工夫である。

 藤原末期の造像で破損は少なく、当代有数の様式を具えた技巧は素晴らしい。

一丈に近い巨像にまとめあげて、相好堂々、大作としてこの地方に雄視するものである。

 

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大仏殿

 大仏殿は、文化庁、山口県、下関市の補助事業として新築した。

この建物は、この地域に残る土塀や土壁のある風景と一体となるように設計した。

そのため外壁には地元の土を固めた約千五百個もの版築ブロックを積み上げるという日本初の工法を採用した。

その外観はあたかもこの地域に多くある土壁の蔵を彷彿とさせている。

 

構造 鉄筋コンクリート・一部鉄骨造り平屋建て

竣工 平成十四年(2002)十月三十日

遷座 平成十五年(2003)十一月十四日

設計管理 (株)隈研吾建築都市設計事務所(東京都)

左官監督 久住章(兵庫県西宮市)

施工   (有)岡埼建設(山口県下関市)

     (有)福田左官店(山口県三隅町)

下関市教育委員会

 

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

 

 所在地  下関市豊浦町厚母郷下郷

 交通   JR山陰本線 梅ヶ峠駅からバス2分「厚母」下車、徒歩3分

      JR山陰本線 梅ヶ峠駅から徒歩15分

      下関 I.Cから車で29分

 問い合わせ 安養寺 083-772-1611

 

平家の一杯水

 源平最後の合戦、壇ノ浦の戦いが行われたのは寿永四年(1185)三月のこと。

 それより先、平家総帥の平宗盛は、一ノ谷(兵庫県)・屋島(香川県)での合戦で相次いで源氏軍に敗退。

瀬戸内海の西端に位置する長門国彦島(現在の下関市彦島)に陣を敷いていた平知盛の元まで落ち延び、起死回生を賭けた地が、関門海峡だった。

 彦島の平家水軍を撃滅すべく、義経は摂津国の渡辺水軍、伊予国の河野水軍、紀伊国の熊野水軍などを味方につけて840艘(『吾妻鏡』)の水軍を編成する。

平家軍は500艘(『吾妻鏡』)で、松浦党100余艘、山鹿秀遠300余艘、平家一門100余艘(『平家物語』)の編成であった。

宗盛の弟の知盛が大将として指揮を取ることになった。

『平家物語』によれば、知盛は通常は安徳天皇や平家本営が置かれる大型の唐船に兵を潜ませて、鎌倉方の兵船を引き寄せたところを包囲する作戦を立てていた。

源氏軍が現れたという知らせが入るや、平知盛は門司にしつらえた仮御所から数え年8歳の安徳天皇や平家全員を船に乗せ、海峡へ。戦船は両軍合わせておよそ千数百隻。

 

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 海峡の赤間関で源平が失合(やあわせ=開戦)することになった日時を、『平家物語』は元暦(げんりゃく)二年(1185)三月二十四日とし、攻め寄せる義経軍水軍に対して、知盛率いる平家軍が彦島を出撃して、平家は新中納言平知盛を総大将に、およそ五百余艘が赤間関の対岸、豊前国田ノ浦に陣取り、

源氏は九郎判官義経を大将に、武将たちを乗せた舟、およそ八百余艘は、満珠・干珠の沖合いに、 

 午の刻(12時ごろ)(『玉葉』による。)、戦いが始まった。両軍とも、できるだけ潮流に左右されずに操船できる時間帯を選んだのであろう。

両軍は静かに船を進め源氏の白旗、平家の赤旗は、しだいに近づく。 やがて源平両軍の船は、その距離三十余町をへだてて相対し、平家の大将平知盛は大音声をはりあげて全軍を激励した。

両軍の舟から一斉に矢が飛びかい矢にあたって海に落ちる者、舟を近づけ熊手を使ってひっかき落とす者、白旗、赤旗入り乱れての激戦。

 範頼軍は三万余騎(『源平盛衰記』による。)をもって陸地に布陣して平家の退路を塞ぎ、岸から遠矢を射かけて義経軍を支援した。

『平家物語』によれば和田義盛は馬に乗り渚から沖に向けて遠矢を二町、三町も射かけたという。

 関門海峡は潮の流れの変化が激しく、平家軍はこれを熟知しており、早い潮の流れに乗って平家方は序盤は鎌倉方が静まり返るほど矢を射かけて、海戦に慣れない坂東武者の義経軍を押した。

義経軍は満珠島・干珠島のあたりにまで追いやられ、勢いに乗った平家軍は義経を討ち取ろうと攻めかかる。

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ここで不利を悟った義経が敵船の水手(かこ)や梶取(漕ぎ手)を射るよう命じた。

この時代の海戦では非戦闘員の水手・梶取を射ることは戦の作法に反する行為だったが、義経はあえてその掟破りを行い防御装備の貧弱な水手・梶取たちが犠牲となり、平家方の船は身動きが取れなくなった。

 戦いは初めこそ、潮流に乗った平家が互角以上に戦い優勢だったが、射尽すと逆に水上からは義経軍に、陸上からは範頼軍に射かけられるままとなった。

やがて潮の流れが変わって反転すると、義経軍はこの流れに乗ってこの時とばかり、ホラ貝を吹き、鐘を鳴らし、勇気を奮い起こし、勢いを盛り返して反撃にてて、平家軍を押しまくる。

平家軍は壊滅状態になり、勝敗は決した。敗北を悟った平家一門は次々と海上へ身を投じた。

 『平家物語』には平家一門の最後の様子が描かれている。

 知盛は建礼門院や二位ノ尼らの乗る女船に乗り移ると「見苦しいものを取り清め給え、これから珍しい東男を御目にかけましょう」と笑った。

これを聞いた二位ノ尼は死を決意して、幼い安徳天皇を抱き寄せ、宝剣を腰にさし、神璽を抱えた。安徳天皇が「どこへ行くのか」と仰ぎ見れば、二位ノ尼は「弥陀の浄土へ参りましょう。波の下にも都がございます」と答えて、安徳天皇とともに海に身を投じた。

『吾妻鏡』によると二位ノ尼が宝剣と神璽を持って入水、按察の局が安徳天皇を抱いて入水したとある。続いて建礼門院ら平氏一門の女たちも次々と海に身を投げる。

 武将たちも覚悟を定め、教盛は入水、経盛は一旦陸地に上がって出家してから還り海に没した。資盛、有盛、行盛も入水している。

剛の者である教経は、鬼神の如く戦い坂東武者を討ち取りまくるが、知盛が既に勝敗は決したから罪作りなことはするなと伝えた。

 

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 教経は、ならば敵の大将の義経を道連れにせんと欲し、義経の船を見つけてこれに乗り移った。教経は小長刀を持って組みかからんと挑むが、義経はゆらりと飛び上がると船から船へと飛び移り八艘彼方へ飛び去ってしまった。義経の「八艘飛び」である。

義経を取り逃がした教経に大力で知られる安芸太郎が討ち取って手柄にしようと同じく大力の者二人と組みかかった。

教経は一人を海に蹴り落とすと、二人を組み抱えたまま海に飛び込んだ。『平家物語』に描かれた平家随一の猛将として知られ屋島の戦い、壇ノ浦の戦いで義経を苦しめた教経の最後だ。

 知盛は「見るべき事は見つ」とつぶやくと、鎧二領を着て乳兄弟(ちきょうだい)の伊賀 平内左衛門家長とともに入水した。

敗戦を覚悟した平家一門は次々と海へ身を投げていった。これは、範頼軍の九州制圧、義経軍の四国制圧、鎌倉方による瀬戸内海制海権の奪取という包囲・孤立化の完成に伴う必然的結末であった。

漕ぎ手 を失った平家の船は進退の自由を失い、混乱しつつ壇之浦に追いつめられて、申の刻(16時ごろ)(『玉葉』による。)平家一門の多くが死ぬか捕らえられ、戦いは源氏の勝利に終わった。

 

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 栄華を誇った平家が滅亡に至った治承・寿永の乱の最後の戦いである。

この戦いにより、平氏(伊勢平氏の平清盛一族)は二十五年にわたる平氏政権の幕を閉じた。

勝利を収めた清和源氏の頭領・源頼朝は、鎌倉に幕府を開き武家政権を確立させる。

 平家のある者は傷を受けながらも、ようやく岸にたどり着いた者もいた。

そのうちの一人肩と足に矢を受けて海に落ち、深手を負いながらも命がけで岸 に泳ぎ着いた平家の武将は、ふと前の方を見ると山すその渚にわずかな水溜まりがあった。

 武将はのどの渇きを癒そうと、痛むからだを引きずってやっとの思いで水溜まりに近づき、手のひらにすくい、その水を一口飲んでみると、それはおいしい真水だった。

夢中になってもう一口と、また手のひらにすくい、再び水を口にしたところ、思わず吐き出してしまった。真水は海水にかわっていたのです。

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後世の人はこれを「平家の一杯水」と呼び今に伝える。

 

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 碑の近くの渚に湧き出る清水(火の山からの伏流水)には祠が立てられ、いまも元旦の若水として赤間神宮の神前に供えられます。

 「更に東駆前田に入れば埋没数十年に及びしを本市技師が苦心発掘せし平家一杯水あり。」 と、下関市史(市制施行ー終戦)の観光、昭和時代に記されている。

 国道9号線沿い、海峡グルメ しずか本館の西側に「平家の一杯水」という石碑が建立されています。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

 

所在地  下関市前田町2-1

 交通   JR下関駅からバス15分「前田」下車、徒歩5分

 問い合わせ 下関市観光振興課 083-231-1350

 

夫婦岩・注連縄張

 

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 下関市豊北町二見浦には国道191号を挟んで、山側に夫婦岩・注連縄張りの由来の碑が建立されており、隔てた海の中に夫婦岩があります。

夫婦岩・注連縄張りの由来には次のように記されています。

 伝説によると、二見浦の背後、馬路山に棲む龍が台風で大時化となる日、夫婦岩の間を通り、本郷沖、壁島の龍権社(りゅうごんしゃ)に御詣りされるという。

 この龍伝説のある夫婦岩の注連縄張りの起りは、今より約百五十年前の嘉永年間(1848〜1854)にさかのぼる。

当時、二見浦は沿岸漁業が盛んであり、地元の漁民が豊漁と海での安全を祈願するために両親健在の若者らを選び一月十一日手斧(ちょうな)始めの日、この夫婦岩に注連縄を渡す神事を始めたとされている。

 

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それ以来、当地区の年中行事の一つとして定着し、北浦一帯に広く知られ今日に至っている。

 この郷土の誇る勇壮な伝統行事は時代の変遷により多少の変更がなされている。

現代では新春早々の一月二日の夜明けを待って綱打を開始し、褌姿の男衆が若潮で禊をした後、夫婦岩によじ登り、注連縄を張り替える。

岩下では残りの男衆が注連縄を竹ノ棒の間(かん)の又(また)で支え、その張り具合を調整する。

 注連縄張りの作業を無事終えると、男衆は、御神酒で祝杯をあげ、今年一年の豊漁と息災を祈願する。

 

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夫婦岩と注連縄の概要

一、 夫婦岩 男岩 五  間(九メートル)

       女岩 三.五間(六メートル)

一、 注連縄 長 さ 打上げ十五間(二十七メートル)

       房の数 平年十二下り・閏年十三下り

       重 量 約五十三貫(二百キロ・ワイヤー入り)

   平成十七年七月吉日

      下関市豊北町二見自治会

 

 所在地  下関市豊北町二見

 交通   JR山陰本線 長門二見駅から徒歩15分

 問い合わせ 豊北総合支所地域振興課 083-782-1914

 

濃霧の中で「しめなわ祭」

 関門海峡の航行が制限されるという深い霧の中で、壇之浦地区の海中に立つ烏帽子(えぼし)岩にしめなわを張り航海の安全と豊漁を願う「しめなわ祭」が、十二月十日地元赤間神宮の神職によって行われました。

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笛の音が流れる 11時40分開始

 

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笛の音が流れる 12時00分終了

 

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濃霧の中で粧いを新たにした烏帽子(えぼし)岩

 所在地  下関市壇之浦町6番

 交通   JR下関駅からバス12分「みもすそ川」下車、徒歩3分

 問い合わせ 赤間神宮 083-231-4138

 




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しめなわ祭: 航海の安全と豊漁を願う関門海峡の冬の風物詩

下関市壇之浦町にある烏帽子岩は、海難防止の守り神として地元の漁師たちから敬われています。

大石が倒れた後に起こった災難

昔、この大石が激しい潮の流れによって海中に倒れたことがありました。

大石が倒れて十日あまり経った頃から、壇ノ浦の町内に大雨、台風、火災、疫病と悪いことが続くようになりました。

町の人々は不安になり、毎日集まって相談しましたが、解決策が見つかりませんでした。

老漁夫の夢のお告げ

ある日、老漁夫は夢枕に狐が現れ、「大石を早く起こさねば災難は更に続くであろう」と告げられました。

大石起こしとしめなわ祭の始まり

老漁夫は町の人々に夢のお告げを伝え、皆で協力して大石を起こすことにしました。

町内の者が総がかりで作業を行い、ようやく大石を起こすことに成功しました。

人々は喜び合い、大石に注連縄を飾ったり、お酒を供えたりして、お祭りをしました。

災難の終焉と豊漁

大石を起こした後は、災害がなくなり、嵐もおさまって、魚がたくさんとれるようになりました。

しめなわ祭の現在

しめなわ祭は、この故事に由来する航海の安全と豊漁を願う祭りです。

毎年12月上旬に、壇之浦地区の海中に立つ烏帽子岩で行われています。

地元の赤間神宮の神職が岩に登って、しめ縄(長さ5メートル、重さ20キロ)を張り、お神酒などをまく神事です。

関門海峡の冬の風物詩として有名で、多くの人々が訪れます。

アクセス情報

  • 所在地:下関市壇之浦町6番?
  • 交通:
    • JR下関駅からバス12分「みもすそ川」下車、徒歩3分
  • 問い合わせ:赤間神宮 083-231-4138

岩谷十三仏: 歴史と信仰が織りなす美しい石仏群

下関市豊浦町川棚中小野にある岩谷十三仏は、室町時代後期に造られた石仏群で、十三仏信仰と干支守護仏信仰が融合した貴重な史跡です。

岩谷十三仏の由来

解説板によると、大内義隆公が陶隆房(後の晴賢)に追われ、岩谷に隠棲していた際に、村人たちに助けを借りたお礼に「ばんばら楽」という巻物を残しました。

その後、大旱魃に見舞われた村人たちは、義隆公への供養と雨乞いのために、ばんばら楽を熊野神社に奉納したところ、たちまち大雨が降り、旱魃から救われたと言われています。

感謝の気持ちを抱いた村人たちは、義隆公の冥福を祈り、十三仏を造立しました。

十三仏とは

十三仏は、亡くなった方の初七日から三十三回忌まで十三回の追善供養を司る仏菩薩です。

それぞれのお仏には慈悲の心が宿り、極楽浄土への往生を願います。

岩谷十三仏の特徴

岩谷十三仏は、自然の岩肌に刻まれた石仏群で、高さは約1メートルから2メートルです。

風雨に削られながらも、穏やかで慈悲深い表情を浮かべており、見る者に深い感慨を与えます。

干支守護仏

十三仏のうち八尊は、干支の守護仏としても信仰されています。

自分の干支の守護仏にお参りすることで、幸運や健康を祈願することができます。

アクセス情報

  • 所在地:下関市豊浦町川棚中小野
  • 交通:
    • JR山陰本線 川棚温泉駅からバス13分「岩谷口」下車、徒歩20分
    • JR山陰本線 川棚温泉駅から車で10分
    • 小月I.Cから車で29分
  • 問い合わせ:豊浦町観光協会 083-774-1211

まとめ

岩谷十三仏は、歴史、信仰、自然が融合した美しい場所です。

静寂な空間に佇む石仏群は、見る者に深い安らぎを与えてくれます。

ぜひ、訪れてみてはいかがでしょうか。

下関の紅葉めぐり

華山・神上寺

種類:モミジ・イチョウ

 

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神上寺は、九州の彦山に修行した役小角が来て、この地の徳仙上人と力を合せて華山(げさん)に開かれたと伝えられる山岳霊場で、宝亀七年(776)に山の中程に御堂が建立されたという。

元弘二年(1332)に後醍醐天皇の命で御堂が麓に近い現在地に移されたので、下山(華山)と称されるようになった。

同寺は朝廷・諸将・藩主などからの祈願所とされた大寺で、最盛期には12坊が連なり「西の高野山」とも呼ばれていたが、2度の大火に遭遇したこともあり、今は中ノ坊だけが残されている。

 

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 境内には仁王門や無明橋、雪舟庭園の他、国重要文化財や県指定文化財も数多く指定されています。

 神上寺の紅葉はモミジ・イチョウが主であり、どれも巨木であるため見ごたえがあります。

 

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見ごろ

11月中旬〜12月上旬

 

所在地  下関市豊田町江良

交通   JR山陽本線小月駅からバス26分「石町」下車、徒歩25分

中国自動車道小月ICから24分

問い合わせ 神上寺 083-766-0286

 

 

東行庵

種類:かえで


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 この地は清水山(しみずやま)と称し、幕末の頃奇兵隊軍監山県狂介(有朋)は麓に草庵を建て無隣庵と名付けていた。

慶応三年(1867)四月、高杉晋作(東行)の遺言により遺骸を奇兵隊の本拠に近いこの地に葬った。(なお、「東行(とうぎょう)」とは晋作の号)。

晋作に仕えていた愛人うの(後に谷梅拠)は、黒髪を断って出家しその墓を守り菩提(ぼだい)を弔うようになったので、山県は明治二年(1869)無隣庵を梅処に贈り僧堂にあてていたが、明治17年に伊藤博文・山形有朋・井上馨等全国諸名士の寄付によって無隣庵の隣接地に、現在の東行庵が建立された。

梅処は明治四十二年にその生涯を閉じるまで東行の菩提を弔った。

 

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 近くには高杉晋作の記念館があるほか、早春には梅、初夏は菖蒲、秋は紅葉と折々の彩りに囲まれた史跡として親しまれています

 毎年行っているライトアップ。平成20年度も、11月1日から20日(予定)の18時から21時となっており、幻想的な紅葉をお楽しみいただけます。

 

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見ごろ

 11月上旬〜下旬

 

 所在地  下関市大字吉田1184

 交通   JR小月駅からバス14分「東行庵入り口」下車、徒歩10分

      小月 I.Cから車で9分

 問い合わせ 東行記念館 083-284-0211

 

覚苑寺

種類:かえで

 

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 元禄十一年(1698)長府毛利藩三代目藩主綱元(つなもと)が開基。中国福建省の人、宇治黄辟山万福寺七世悦山道宗禅師を招き、開山として創建したものである。

長府藩主の菩提所となり、綱元ほか二藩主の墓地がある。

付近一帯は和同開珎(わどうかいちん)の鋳銭所跡で、出土品は長府博物館に展示されている。

 

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境内には狩野芳崖(かのうほうがい)、乃木希典(のぎまれすけ)の銅像や和銅焼の窯元もあります。

 たくさんの楓の木があり、紅葉時期には大勢の観光客が訪れる紅葉の名所です。

 

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見ごろ

 11月上旬〜下旬

 

 所在地  下関市長府安養寺3-3-9

 交通   JR長府駅からバス7分「城下町長府」下車、徒歩15分

      JR下関駅からバス23分「城下町長府」下車、徒歩15分

 問い合わせ 覚苑寺 083-245-0649

 

 

 

長府毛利邸

種類:かえで・イチョウ

 

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 明治31年(1898)長府毛利家14代元敏(もととし)公によって起工され、明治36年(1903)に完成した邸宅で、大正8年(1919)まで本邸として使用された。

明治35年(1902)明治天皇が熊本で行われた陸軍大演習をご視察の際当邸を行在所(あんざいしょ・天皇行幸時の仮の宮)としても使用され、一部の部屋は当時のまま残されている。

 

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 外壁に囲まれた約3千坪の敷地の中には、苔、石、池、楓等を巧みに配した池泉回遊式純和風庭園が整備され、純和風庭園と紅葉とのコンビネーションが醸し出す素晴らしい秋の情景に心癒されることでしょう。

 邸内では給茶サービスもあります。

 

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見ごろ

 11月上旬〜下旬

 

 所在地  下関市長府惣社町4-10

 交通   JR長府駅からバス7分「城下町長府」下車、徒歩10分

      JR下関駅からバス23分「城下町長府」下車、徒歩10分

 問い合わせ 長府毛利邸 083-245-8090

 

 

 

 

功山寺

種類:かえで

 

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 旧名を谷の長福寺と称し、臨済宗であった。

嘉歴二年(1327)の創建で、足利氏、厚東氏、大内氏など武門の尊敬厚く、山門隆盛し無双の大寺院を誇った。

弘治二年(1556)四月四日、大内義長は毛利氏のために当寺の仏殿において自刃した。

この戦乱により一寺堂宇は荒廃したが、慶長七年(1602)、長府藩主初代毛利秀元はこれを修営し、寺領山林を寄進してその菩提所とし、再び旧観に復した。

安芸国廿日市洞雲寺開山金岡襟師を請じて中興の開山とし、曹洞宗に転宗した。

秀元の死後、慶安三年(1650)、公の霊位を安置し、世々毛利家の香華寺として、秀元の法号智門寺殿功山玄誉大居士にちなんで功山寺と改称した。

 

 元応二年(1320)建立の、唐様(からよう)建築の美しさを保つ仏殿は、典型的な鎌倉期禅宗様式として、国宝に指定されています。

 数々の歴史の舞台となったところで、幕末の三条実美らの五卿潜居(ごきょうせんきょ)や高杉晋作の挙兵の場所でもあります。

 初代秀元(ひでもと)をはじめ9人の藩主達の墓が仏殿裏にあります。

 毛利軍に敗れ、この地で自決した大内義長(よしなが)のものと言われている墓は、裏の墓地の奥まったところにあります。

 

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 紅葉の名所で、功山寺の紅葉の素晴らしさは、1本1本の楓(かえで)の木も非常に大きく、国宝である仏殿や山門に映える美しく色づいた紅葉が、秋の美を感じさせてくれることです。

また、周りの木々に取り囲まれているため、紅葉が意外と遅いことで知られています。

 

見ごろ

 11月中旬〜12月上旬

 

 所在地  下関市長府川端一丁目

 交通   JR長府駅からバス7分「城下町長府」下車、徒歩10分

      JR下関駅からバス23分「城下町長府」下車、徒歩10分

 問い合わせ 功山寺 083-245-0258

 

 

 

虚無僧墓: 酒好きの虚無僧が救った村娘と頭痛封じの伝説

下関市豊浦町川棚中小野にある虚無僧墓は、酒好きで村人から敬遠されていた虚無僧が、山賊から村娘を救い、頭痛封じの御利益があるとされる伝説的な墓です。

虚無僧と村娘

天保年間(1830〜1843)、尺八を吹いては酒ばかり飲んでいた虚無僧は、村人から敬遠されていました。

しかし、ある日、村の娘が山賊に襲われた時、命懸けで娘を救い出したのは、他ならぬこの虚無僧でした。

虚無僧の最期と遺言

弘化3年(1846)、虚無僧は脳病のため苦しみ、川棚川の河原で大きな岩に頭を二度三度ぶっつけて倒れました。

そして、「私の墓を建てて酒を供えてくれれば、あなたたちの苦しみを和らげてあげよう」と言い残して息を引き取りました。

頭痛封じの御利益

村人たちは、虚無僧が頭の痛みを和らげるために酒を飲んでいたことを知り、墓を建てて供養しました。

その後、虚無僧墓は頭痛封じの御利益があると評判になり、現在も多くの参拝者が訪れています。

アクセス情報

  • 所在地:下関市豊浦町川棚中小野
  • 交通:
    • JR山陰本線 川棚温泉駅からバス16分「虚無僧墓」下車、徒歩すぐ
    • JR山陰本線 川棚温泉駅から車で11分
    • 小月I.Cから車で30分
  • 問い合わせ:豊浦町観光協会 083-774-1211