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【下関・豊浦】室町時代の祈り。「岩谷十三仏」で干支の守護仏に会う歴史散策

下関市豊浦町、静かな山里にひっそりと佇む貴重な史跡をご存知でしょうか?

その名は「岩谷十三仏(いわやじゅうさんぶつ)」。

室町時代後期に自然の岩肌に刻まれたこの石仏群は、歴史のロマンと人々の深い感謝の心が込められた、知る人ぞ知るパワースポットです。

今回は、自分の干支の守り本尊にも出会える、岩谷十三仏の魅力と不思議な伝説をご紹介します。


☔ 殿様への感謝が生んだ奇跡!「雨乞い」の伝説

この石仏群が作られた背景には、ある戦国武将と村人たちの、心温まる物語が残されています。

逃げ延びた大内義隆公と「ばんばら楽」

かつて、陶隆房(後の晴賢)の謀反により追われた大名・**大内義隆(おおうちよしたか)**公が、この岩谷の地に隠れ住んでいたことがありました。

その際、助けてくれた村人たちへのお礼として、義隆公は「ばんばら楽」という芸能を記した巻物を残したといいます。

雨乞いの奇跡と十三仏の造立

その後、村が大干ばつに見舞われた際、村人たちは義隆公への供養と雨乞いのために、その「ばんばら楽」を熊野神社に奉納しました。するとたちまち大雨が降り、村は救われたのです。

この奇跡に感謝した村人たちが、義隆公の冥福を祈り、造り上げたのがこの十三仏だと伝えられています。


🙏 自然の岩に刻まれた、慈悲深い13の祈り

岩谷十三仏は、高さ約1メートルから2メートルの自然の岩肌に彫られています。

長い年月を経て風雨にさらされてきましたが、その表情は今も穏やかで慈悲深く、見る人の心を静かに癒やしてくれます。

十三仏とは?

亡くなった方の初七日から三十三回忌まで、十三回の追善供養を司る仏様たちのこと。それぞれが慈悲の心を持ち、人々を極楽浄土へと導くとされています。


🐭 あなたの守り本尊は?「干支守護仏」めぐり

ここを訪れたらぜひチェックしたいのが、「干支(えと)守護仏」です。

十三仏のうちの八尊は、それぞれの干支を守る仏様としても信仰されています。

  • 千手観音(子年)
  • 虚空蔵菩薩(丑・寅年)
  • 文殊菩薩(卯年)
  • 普賢菩薩(辰・巳年)
  • 勢至菩薩(午年)
  • 大日如来(申・未年)
  • 不動明王(酉年)
  • 阿弥陀如来(戌・亥年)

自分の干支の守護仏にお参りして、幸運や健康を祈願してみてはいかがでしょうか。


ℹ️ 基本情報&アクセス

歴史、信仰、そして自然が融合した静寂の空間へ、心を整える旅に出かけてみませんか?

項目内容
スポット名岩谷十三仏(いわやじゅうさんぶつ)
所在地下関市豊浦町川棚中小野
時代室町時代後期
お問い合わせ083-774-1211(豊浦町観光協会)

🚗 アクセス

  • 【バス】
    • JR山陰本線「川棚温泉駅」からバスで約13分、「岩谷口」下車、徒歩20分
  • 【車】
    • JR山陰本線「川棚温泉駅」から約10分
    • 中国自動車道「小月I.C」から約29分

💖 まとめ

戦国の世の逃避行と、村人たちの感謝の祈りが生んだ「岩谷十三仏」。

静かな山あいで石仏と向き合う時間は、現代の忙しさを忘れさせてくれるひとときになるはずです。

川棚温泉への旅行の際は、少し足を伸ばして、この歴史あるパワースポットを訪れてみませんか?

【下関・吉田】奇兵隊の駐屯地!「首切六地蔵」の衝撃的な伝説が残る法専寺

高杉晋作が眠る地として知られる、下関市吉田地区。

この歴史情緒あふれる場所に、維新の動乱と悲しい歴史を今に伝えるお寺があります。

その名は「法専寺(ほうせんじ)」。

ここはかつて奇兵隊の駐屯所として使われた由緒ある寺院ですが、境内には「首切六地蔵」と呼ばれる、衝撃的な逸話を持つお地蔵様が鎮座しています。

今回は、幕末の志士たちの息吹と、少し背筋が凍るような歴史ミステリーが同居する「法専寺」の見どころをご紹介します。


⚔️ 「首をはねてこい!」若き隊長の命令と六地蔵

境内に並ぶ六体のお地蔵様。よく見ると、首の部分に継ぎ目があることに気づくはずです。

これには、明治維新の頃の荒々しいエピソードが関係しています。

神国思想と排仏の嵐

当時、近くの松林寺に陣を張っていた「少年隊」の隊長・鳥尾小弥太が、隊員たちにある命令を下しました。

「我が国は神国であるにもかかわらず、仏教が盛んになり石地蔵まで氾濫しているのはけしからん。君たちに勇気があれば、首をはねてこい」

現代に残る傷跡

この命令を受けた隊員たちによって、六体の地蔵の首は切り落とされてしまいました。

現在は、首の中心に鉄棒を打ち込み、セメントでつなぎ合わされて修復されています。

痛々しくも歴史の証人として佇むその姿は、時代の激しさを静かに物語っています。


🚩 奇兵隊の「駐屯所」としての歴史

法専寺は、奇兵隊の陣屋(本拠地)ができるまでの間、駐屯所の一つとして使用されていた歴史があります。

高杉晋作らが活躍した激動の時代、志士たちがこの場所で何を語り合ったのか、想像するだけで歴史ロマンが広がります。

また、山手にある墓地には、小倉戦争で戦死した奇兵隊士8名の墓があり、今も手厚く弔われています。


🙏 秘仏と千人塚。人々の祈りの場所

法専寺の歴史は古く、寛文4年(1664年)に領主・山内広通の室である帰命院が開基となり、寺号を改めて法専寺となりました。

  • 秘仏・阿弥陀如来:本尊は長野の善光寺如来を写したものといわれ、20年ごとに御開帳される秘仏です。
  • 千人塚(餓死魂の碑):境内には、享保17年(1732年)の大飢饉で亡くなった人々を供養する碑も建てられています。

ℹ️ 基本情報&アクセス

奇兵隊ゆかりの地「東行庵」などとあわせて、吉田エリアの歴史散策におすすめです。

項目内容
スポット名法専寺(ほうせんじ)
所在地下関市大字吉田地方吉田五区埴生口
見どころ首切六地蔵、奇兵隊士の墓、千人塚
お問い合わせ083-284-0754

🚗 アクセス

  • 【バス】
    • JR「小月駅」からバスで約16分、「宗地」バス停下車、徒歩20分

💖 まとめ

奇兵隊士たちが過ごした駐屯所であり、時代の波に翻弄されたお地蔵様が残る「法専寺」。

ただ静かなだけではない、幕末の熱気と痛みが刻まれた場所です。

下関・吉田へお越しの際は、この歴史の証人たちに会いに行ってみませんか?

【下関・長府】古代の「時短」テクニック!?長門国惣社跡で歴史の跡をたどる

歴史の街・下関市長府。

城下町の風情が色濃く残るこのエリアに、「長門国惣社跡(ながとのくにそうじゃあと)」という史跡があるのをご存知ですか?

「惣社(そうじゃ)」とは、実は平安時代の国司たちが考案した、ある画期的なシステムの名残なんです。

今回は、古代の役人たちの知恵と、長府の歴史の深さを感じられるスポットをご紹介します。


⛩️ 「惣社」ってなに?平安時代の画期的なシステム

「惣社(そうじゃ)」とは、簡単に言うと国内の神社を一つにまとめた合同神社のことです。

国司たちの悩みと解決策

大化の改新(645年)以降、中央から派遣された国司(今の県知事のような役職)にとって、着任後の最初の仕事は、管内にある全ての神社を巡拝することでした。

しかし、広い国中をすべての神社へお参りするのは大変な重労働。時代が下って平安中期になると、次第にそのしきたりも怠りがちになっていきました。

そこで考案されたのが、国府(役所)の近くに**国内の神社の神様を合祀した「総社」**を建て、そこにお参りすることで全てを巡ったことにする、というシステムです。

いわば、古代の「効率化」や「時短」のための施設だったわけですね。


📍 今も残る地名「惣社町」

かつて長門国府があった長府。

国衙(役所)にほど近い場所に長門国の総社が建立され、昭和40年代まではその社の一部を見ることができたといいます。

現在、社殿は残っていませんが、このあたりの地名は今でも「惣社町(そうじゃちょう)」と呼ばれています。

地名そのものが、かつてここに国中の神様が集まる重要な場所があったことを、静かに物語っているのです。


ℹ️ 基本情報&アクセス

長府散策の際は、ぜひこの歴史ある場所に立ち寄って、古代の風景に思いを馳せてみてください。

項目内容
スポット名長門国惣社跡
所在地下関市長府惣社町
お問い合わせ083-246-1120(長府観光会館)

🚗 アクセス

  • 【バス】
    • JR「長府駅」からバスで約7分、「城下町長府」下車、徒歩10分
    • JR「下関駅」からバスで約23分、「城下町長府」下車、徒歩10分

💖 まとめ

国中の神様へのお参りを一箇所で済ませてしまおうという、平安時代の人々の合理的な発想。

「長門国惣社跡」は、そんな歴史の面白さを感じられるスポットです。

城下町長府のレトロな街並みを歩きながら、ふと足元の歴史に目を向けてみませんか?


長府エリアの古民家カフェでのランチ情報や、近くの国宝「功山寺」の観光情報についてもご紹介できますが、いかがでしょうか?

【下関】平家の落人が眠る隠れ里。「平家塚」で歴史の静寂に触れる

源平合戦の最後の舞台、下関・壇ノ浦。

その戦いに敗れ、滅び去ったはずの平家一門の中に、ひっそりと山あいに逃げ延びた人々がいたことをご存知でしょうか?

下関市大字高畑(たかはた)。

海を見下ろすこの地には、平家の落人たちの墓と伝えられる「平家塚(へいけづか)」が今も静かに佇んでいます。

かつては「祟りがある」と恐れられた場所ですが、現在は地元の人々に守られ、歴史と自然が調和する静寂の史跡となっています。

今回は、悲劇の歴史に思いを馳せる、大人の歴史散策へご案内します。


🏞️ 隠れ里に残る、海を見つめる墓石

壇ノ浦の合戦の後、生き残った平家の落人たちは、人目を忍んでこの高畑の里に隠れ住んだと言われています。

ひっそりと佇む五輪塔

碑の横から奥へと続く道を進むと、そこには古い五輪塔や墓石がひっそりと建てられています。

登り道の反対側や市道の向こう側にも墓石が点在しており、そのどれもが、丘の上から目の前の青い海をじっと見つめているかのようです。

故郷を想っているのか、それとも海に散った仲間を想っているのか。静かな石仏の姿に、胸が締め付けられます。


🍃 恐れられた「平家薮」と今の姿

この場所は別名「平家薮(へいけやぶ)」とも呼ばれています。

かつては、「ここに一歩でも足を踏み入れると、震えがつき、祟り(たたり)がある」と恐れられていたそうです。

落人たちの無念や警戒心が、そのような伝説を生んだのかもしれません。

地元の人々に守られて

しかし現在は、決して怖い場所ではありません。

月に一度、地元の婦人たちの手によって清掃が行われ、花や線香が手向けられています。

地元の人々の温かい手によって守られている、清らかな祈りの場所なのです。


ℹ️ 基本情報&アクセス

歴史と自然が織りなす静寂の中で、平家の物語に耳を澄ませてみませんか?

項目内容
スポット名平家塚(へいけづか)
所在地下関市大字高畑(野久留米街道から600m)
お問い合わせ083-231-1350(下関市観光振興課)

🚗 アクセス

  • 【バス】
    • JR「下関駅」からバスで約18分、「浜浦台」下車、徒歩15分
  • 【車】
    • 下関I.Cから約9分

💖 まとめ

都を追われ、戦に敗れ、それでもこの地で生きた平家の人々。

海を見つめ続ける墓石は、私たちに命の尊さと平和の重みを静かに語りかけてくれます。

下関観光の際は、華やかな観光地から少し足を伸ばして、この「隠れ里」を訪れてみてはいかがでしょうか。

【下関】安徳天皇漂着の地!小門御旅所に秘められた悲劇

源平合戦の最後の舞台、壇ノ浦。

その戦いでわずか8歳にして海に消えた幼き帝、安徳天皇の「その後」を伝える場所が、下関駅から徒歩圏内にあることをご存知ですか?

その場所は「赤間神宮小門御旅所(あかまじんぐうおどおたびしょ)」。

ここは、入水した安徳天皇のご遺体が流れ着き、人目を避けて密かに葬られたと伝えられる、悲しくも神聖な伝説の地です。

今回は、華やかな赤間神宮とは対照的に、静かに歴史の真実を伝える「小門御旅所」の由緒と、毎年5月に行われる絢爛豪華な神事についてご紹介します。


🌊 流れ着いた幼き帝。中島家による「密葬」の伝説

寿永4年(1185年)3月24日、源平船合戦(壇ノ浦の戦い)。

平家一門の滅亡とともに、二位ノ尼に抱かれて海へ入水した安徳天皇。そのご遺体は、潮流に乗ってこの「小門(おど)海峡」へと流れ着いたと伝えられています。

漁師が見つけた「やんごとなき亡骸」

網を引いていた中島家の人々(当時の漁師といわれています)が、その高貴な衣をまとったご遺体を引き上げました。

彼らは「これはただごとではない」と悟り、源氏の厳しい追及を逃れるため、密かにこの場所に仮埋葬したといわれています。

現在、赤間神宮(阿弥陀寺)に安徳天皇が祀られていますが、最初に眠りについたのは、この海峡のそばの小さな場所だったのです。


👘 時代絵巻が蘇る!5月4日の「御神幸祭」

普段はひっそりとしているこの場所も、年に一度、平安絵巻のような華やかさに包まれます。

それが、下関最大のお祭り「先帝祭(せんていさい)」の翌日、5月4日に行われる「御神幸祭(ごじんこうさい)」です。

古代衣装の行列が練り歩く

この日は、赤間神宮から御鳳輦(ごほうれん/神様の乗り物)を中心とした行列が、この小門御旅所を目指して進みます。

古代衣装に身を包んだ崇敬会員や、可愛らしい稚児たちが練り歩く姿は、平家の栄華を今に伝えるかのような美しさ。

この場所で厳かに祭事が執り行われ、安徳天皇の御霊を慰めます。


ℹ️ 基本情報&アクセス

JR下関駅から徒歩15分と、散策がてら立ち寄れる距離にあります。

項目内容
スポット名赤間神宮小門御旅所(あかまじんぐうおどおたびしょ)
所在地下関市伊崎町2-9-21
関連行事5月4日 先帝祭御神幸祭
お問い合わせ083-231-1350(下関市観光振興課)

🚗 アクセス

  • 【バス】
    • JR「下関駅」からバスで約2分、「竹崎」バス停下車、徒歩10分
  • 【徒歩】
    • JR「下関駅」から徒歩約15分

💖 まとめ

華やかな赤間神宮の陰で、ひっそりと安徳天皇の最初の眠りを守り続けてきた「小門御旅所」。

海峡の風を感じながらこの地に立つと、800年以上前の悲劇と、幼き帝を弔った人々の優しい想いが伝わってくるようです。

下関駅周辺を散策する際は、少し足を伸ばして、歴史の裏側に触れる旅をしてみませんか?

【下関】維新回天の始まり!高杉晋作が最初に襲撃した「萩藩新地会所跡」

幕末の風雲児・高杉晋作。

彼が長州藩、ひいては日本の歴史を大きく変えるきっかけとなったクーデター「功山寺挙兵」。

その際、高杉が率いる軍勢が最初に襲撃したターゲットが、現在のJR下関駅近くにあることをご存知でしょうか?

その場所は「萩藩新地会所跡(はぎはんしんちかいしょあと)」。

現在は厳島神社の参道横に石碑が残るのみですが、ここはかつて萩本藩の出先機関があった重要な拠点でした。

今回は、歴史ファンなら一度は訪れたい、維新の動乱が火を吹いた現場をご紹介します。


⚔️ 元治元年12月15日、歴史が動いた夜

時は幕末、元治元年(1864年)12月15日。

保守派が主導権を握っていた長州藩の体制を変えるため(藩政改革)、高杉晋作はわずかな兵を率いて長府の功山寺で挙兵しました。

最初のターゲット「新地会所」

雪の降る中、高杉たちが目指したのは、萩本藩の出先機関であった「新地会所」でした。

ここを襲撃し、武器や弾薬を確保したことが、その後のクーデター成功への第一歩となったのです。

この場所は、まさに**明治維新への歯車が大きく回り始めた「起点」**とも言える場所です。


⛩️ 厳島神社の横にひっそりと

現在、当時の建物は残っていませんが、下関市上新地町にある厳島神社の参道横に、その歴史を伝える碑が建立されています。

JR下関駅から徒歩約11分というアクセスの良さも魅力。

駅周辺の賑わいから少し離れた静かな場所で、激動の時代に思いを馳せてみてはいかがでしょうか。


ℹ️ 基本情報&アクセス

項目内容
スポット名萩藩新地会所跡(はぎはんしんちかいしょあと)
所在地下関市上新地町1丁目(厳島神社入り口横)
関連人物高杉晋作
お問い合わせ083-231-1350(下関市観光振興課)

🚗 アクセス

  • 【徒歩】
    • JR「下関駅」から徒歩約11分
  • 【バス】
    • JR「下関駅」から高尾線バスで約4分、「厳島神社前」下車、すぐ

💖 まとめ

わずかな兵力で大軍に挑んだ高杉晋作の覚悟と、維新の幕開けを目撃した場所「萩藩新地会所跡」。

厳島神社への参拝とあわせて、歴史の転換点となったこの地に立ってみませんか?

【下関】高杉晋作、命燃え尽きる場所。療養の地で偲ぶ最期の日々

幕末の風雲児、高杉晋作。

奇兵隊を創設し、維新の原動力となった彼ですが、その最期は結核という病との戦いでした。

下関市桜山町にある「高杉晋作療養の地」。

ここは、日本の夜明けを見ることなく駆け抜けた英雄が、短い生涯の最後を静かに過ごした場所です。

今回は、激動の時代を戦い抜き、この地で休息をとった晋作の最期の日々をご紹介します。


🤧 戦いの中での発病、そして療養へ

物語は、慶応2年(1866年)6月に始まった四境戦争(第二次長州征伐)の頃にさかのぼります。

晋作は奇兵隊などの諸隊を率いて、圧倒的な兵力差のある幕府軍を小倉口で見事に撃退しました。

しかし、華々しい戦果の裏で、彼の体はすでに病魔に冒されていました。

同年9月、晋作は突然多量の喀血(吐血)に見舞われます。

無理を押して戦場に立っていましたが、ついに10月には職を解かれ、療養に専念せざるを得なくなりました。


🏚️ 小さな家で過ごした穏やかな時間

病状が進行した晋作は、それまで滞在していた白石邸から、桜山神社の近くに小さな家を建てて移り住みました。

ここでの生活を支えたのは、二人の女性でした。

一人は勤皇の志士たちを母のように支えた尼僧・野村望東尼(のむらぼうとうに)、そしてもう一人は晋作の愛人であったおうのです。

彼女たちの献身的な看病を受けながら、晋作はこの小さな家を**「東行庵(とうぎょうあん)」とも「捫蝨処(もんしつしょ)」**とも称して過ごしたと言われています。

激動の人生の中で、つかの間の静寂がここにはあったのかもしれません。


ℹ️ 基本情報&アクセス

維新の英傑が最期の時を過ごした場所。

近くには奇兵隊士の霊を祀る「桜山神社」もありますので、あわせて訪れてみてはいかがでしょうか。

項目内容
スポット名高杉晋作療養の地
所在地下関市桜山町
お問い合わせ083-231-1350(下関市観光振興課)

🚗 アクセス

  • 【バス】
    • JR「下関駅」から高尾線バスで約4分、「厳島神社前」下車、徒歩3分

💖 まとめ

幕府軍を撃退した英雄が、病と闘いながら静かに過ごした療養の地。

下関の街角に残る史跡の前に立つと、若くして散った高杉晋作の無念と、彼を支えた人々の温かさが伝わってくるようです。

歴史ファンの方は、ぜひ桜山エリアを散策して、維新の息吹を感じてみてください。

【新下関】駅から徒歩6分!「秋根古墳」で6世紀のミステリーと公園散歩

新幹線も停車するターミナル駅「新下関駅」。

そこから歩いてわずか6分、住宅街の中にある公園に、古代のタイムカプセルが眠っているのをご存知ですか?

その名は「秋根古墳(あきねこふん)」。

神社と一体になった不思議なロケーションで、古代の有力者が眠る6世紀の世界を感じられるスポットです。

今回は、駅チカで気軽に歴史ロマンに触れられる、秋根古墳の見どころをご紹介します!


⛩️ 神社の裏に発見!2つの古墳が並ぶ公園

秋根古墳があるのは、「秋根記念公園」の中。

ここには「1号墳」と「2号墳」、2つの古墳が並んで保存されています。

明治時代に見つかった「1号墳」

公園内にある「秋根八幡宮」の裏手にひっそりとあるのが、1号墳です。

明治20年(1877)頃、神社の社殿を改修している時に発見されました。

6世紀中頃に造られた円形墳(円墳)だと推定されており、発見されたそのままの場所で保存されています。

引っ越してきた「2号墳」

そのすぐ西隣にあるのが2号墳。

もともとは南へ約100m離れた場所にあったものを、昭和50年の調査時の姿でここに移築・復元しました。

2つの古墳を見比べながら、古代の風景を想像してみるのも面白いですね。


🗡️ おしゃれアイテムや武器も!出土品のロマン

ただのお墓ではありません。これらの古墳からは、当時の人々の暮らしや身分を伝える貴重な品々が出土しています。

  • 装身具: 勾玉(まがたま) などのアクセサリー
  • 武具・馬具: 太刀(たち) などの武器や、馬につける道具

きらびやかな装飾品や武具と共に埋葬された人物は、この地域を治めていた有力なリーダーだったのかもしれません。


🙏 江戸時代以前から続く「秋根八幡宮」

古墳を守るように鎮座する「秋根八幡宮」も、歴史ある神社です。

本殿の建造年代から、江戸時代の前期以前にはすでに祀られていたと考えられています。

古墳見学とあわせて、静かな境内でお参りをして心を整えるのもおすすめです。


ℹ️ 基本情報&アクセス

新下関駅からのお散歩コースにぴったりです。

項目内容
スポット名秋根古墳(秋根記念公園内)
所在地下関市秋根西町一丁目
見どころ円形墳(1号墳・2号墳)、秋根八幡宮
お問い合わせ083-231-1350(市観光振興課)

🚗 アクセス

  • 【徒歩】
    • JR「新下関駅」から徒歩6分

💖 まとめ

駅のすぐそばに残る、1500年前の古墳と歴史ある神社。

「秋根古墳」は、現代の街並みの中でふと古代の風を感じられる、貴重な癒やしスポットです。

新幹線の待ち時間や、休日のちょっとしたお散歩に、古代ロマンを探しに行ってみませんか?

【下関】響灘の砂丘に眠る弥生のミステリー「中ノ浜遺跡」

美しい響灘(ひびきなだ)に面した下関市豊浦町の海岸砂丘。

ここに、弥生時代の人々の死生観とミステリーを今に伝える貴重な史跡「中ノ浜遺跡(なかのはまいせき)」があります。

昭和35年に発見され、現在はきれいに整備された墓地公園として公開されているこの場所。

「手を切り離して埋葬?」「お墓の上に貝?」など、当時の不思議な習俗が垣間見える歴史スポットをご紹介します。


⚱️ 多様なスタイル!弥生前期~中期の「お墓の博物館」

中ノ浜遺跡は、弥生時代の前期から中期初頭にかけて築かれた埋葬遺跡です。

ここの特徴は、なんといってもお墓の種類の多さです。

  • 土壙墓(どこうぼ): 地面を掘りくぼめたシンプルなお墓
  • 箱式石棺墓(はこしきせっかんぼ): 板石を箱状に組み合わせたお墓
  • 甕棺墓(かめかんぼ): 大きな壺にお骨を納めるお墓
  • 集骨葬: 施設を伴わないお墓

様々なスタイルのお墓が混在しており、作られた時期やグループの違いを表していると考えられています。


🤔 なぜ?ミステリアスな埋葬の習俗

この遺跡からは、当時の社会や精神世界を知る手がかりとなる、ちょっと不思議な埋葬例が見つかっています。

  • 手を切り離した例: 遺体の手の部分を切り離して埋葬していた例
  • 二枚貝を置く: 埋葬の上に二枚貝の片方を置いた例
  • 白い砂で覆う: 花崗岩が風化した白い砂で埋葬を覆った例

これらが何を意味するのか、想像力をかきたてられますね。


🗺️ 「土井ヶ浜」や「綾羅木」とも繋がっていた?

響灘沿岸には、北に有名な「土井ヶ浜遺跡」、南に「綾羅木郷(あやらぎごう)遺跡」という大きな国指定史跡があります。

中ノ浜遺跡からは土井ヶ浜遺跡式の土器も出土しており、これらの地域の人々には何らかの交流や関係があったと思われます。

古代のネットワークに思いを馳せてみるのも一興です。


ℹ️ 基本情報&アクセス

現在は墓地公園として整備され、一般公開されています。

川棚温泉からも近いので、歴史散策の立ち寄りスポットとしておすすめです。

項目内容
スポット名中ノ浜遺跡(なかのはまいせき)
所在地下関市豊浦町川棚
指定山口県指定史跡
お問い合わせ083-774-1211(豊浦町観光協会)

🚗 アクセス

  • 【車】
    • JR山陰本線「川棚温泉駅」から約5分
    • 中国自動車道「小月I.C」から約31分
  • 【徒歩】
    • JR「川棚温泉駅」から約26分

💖 まとめ

響灘の風を感じながら、古代の人々の祈りや暮らしの跡に触れられる「中ノ浜遺跡」。

教科書には載っていない、弥生時代のリアルな空気を体感しに行ってみませんか?

【下関・菊川】1400年前の豪族が眠る場所。「植松古墳公園」で古代ロマン散策

下関市菊川町、のどかな田部盆地の一角に、古代の息吹を感じられる場所があります。

その名は「植松古墳公園(うえまつこふんこうえん)」。

ここは、今から約1300〜1400年前の古墳時代に造られたお墓が、公園としてきれいに整備・保存されているスポットです。

当時の有力者たちが眠る石室を間近に見ながら、歴史のロマンに浸ってみませんか?


⚱️ 1400年前のタイムカプセル!横穴式石室の謎

植松古墳公園にあるのは、「横穴式石室(よこあなしきせきしつ)」を持つ古墳群です。

作られたのは、今からおよそ1300年から1400年前。

誰のお墓?

詳しいことはわかっていませんが、当時この吉賀(よしか)地区を中心に勢力を持っていた小豪族か、あるいは有力な農民層の家族のお墓ではないかと考えられています。

石室の前に立つと、かつてこの地を開拓し、暮らしていた人々の営みが目に浮かぶようです。


🏞️ 公園として整備された歴史遺産

かつてこの場所には、7基の古墳がありました。

しかし、残念ながらそのうちの4基は、辺りが水田として開発された際に失われてしまいました。

現在は、完全に残っている2基を含め、その周囲一帯が「植松古墳公園」として大切に整備されています。

また、公園から東へ約100メートル離れた場所にも、もう1基、同じ形の円墳が現存しています。

失われた歴史を惜しみつつ、今に残る貴重な遺産をじっくりと見学できるのが魅力です。


ℹ️ 基本情報&アクセス

ドライブの途中にふらりと立ち寄れる、歴史の隠れ家スポットです。

項目内容
スポット名植松古墳公園
所在地下関市菊川町大字吉賀
種類横穴式石室墳群(円墳)
お問い合わせ083-287-1114(菊川総合支所地域振興課)

🚗 アクセス

  • 【車】
    • 中国自動車道「小月IC」から約11分

💖 まとめ

田園風景の中に静かに佇む、古代の有力者たちの眠る場所。

「植松古墳公園」は、整備された環境で気軽に古墳を見学できる、歴史好きにはたまらないスポットです。

菊川町を訪れた際は、1400年の時を超えて残された石の部屋を覗きに行ってみませんか?