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東行庵

 

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 高杉晋作の墓所近くに建てられた東行庵の案内板には、次のように記されています。

 

 この地は清水山(しみずやま)と称し幕末の頃奇兵隊軍監山県狂介(有朋)は麓に草庵を建て無隣庵と名付けていた。慶応三年(1867)四月、高杉晋作(東行)の遺言により遺骸を奇兵隊の本拠に近いこの地に葬った。晋作に仕えていた愛人うの(後に谷梅拠)は黒髪を断って出家したので、山県は明治二年(1869)無隣庵を梅処に贈り欧州に旅立った。

 

 現在の庵は明治17年伊藤博文・山形有朋・井上馨等全国諸名士の寄付により建立されたもので、梅処は明治四十二年にその生涯を閉じるまで東行の菩提を弔った。

 昭和四十一年東行の百年祭を機に庵の原型をとどめるため大修理を行った。

 

 近くには高杉晋作の記念館があるほか、早春には梅、初夏は菖蒲、秋は紅葉と折々の彩りに囲まれた史跡として親しまれています

 

所在地 下関市大字吉田1184

交通 JR小月駅からバス14分「東行庵入り口」下車、徒歩10分

問い合わせ 東行記念館 083-284-0211

 

高杉晋作の墓

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慶応3年(1867)4月14日、明治維新の直前に、下関において結核のため27歳8カ月の短い生涯を閉じました。

 

遺骸は遺言によって奇兵隊ゆかりの地、吉田の清水山に土葬されました。

 

元治元年(1864)12月15日深夜長府功山寺で力士隊、遊撃隊を率いて挙兵のとき死 を覚悟し、大庭伝七(白石正一の弟)に遺書を送ってこの中で、表に「故奇兵隊開闢総督高杉晋作則 西海一狂生東行之墓 遊撃将軍谷梅之助也」、裏には「毛利家恩古臣高杉某嫡子也」と、墓碑銘も指定していたと言われていますが、晋作の希望はかなえられることなく、表に「東行墓」、裏面には「谷潜蔵 源 春風、号東行、慶応三年丁卯四月十四日病歿赤間関享年二十九」と刻まれています。

 

 所在地 下関市大字吉田1184

 交通 JR小月駅からバス14分「東行庵入り口」下車、徒歩11分

 問い合わせ 東行記念館 083-284-0211

 

吉田宰判勘場・御茶屋跡

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藩政時代(1600〜1870)、防長二国は18の宰判に分けられ、統治されていました。

吉田宰判はそのひとつで統治区域は吉田、厚狭、末益、松屋、津布田、宇津井、山野井、今浦、伊衛、山中、於福、河原、大嶺に及んでいました。

 宰判を代表して司る者を代官といい、勘場は代官が出張する役所で、建物や土塀が今もなお当 時の名残をとどめています。

 御茶屋は勘場に隣接していて、公儀の役人や参勤交代途中の諸大名の宿泊所となった建物です。

 幕末には、宰判勘場とともに奇兵隊の駐屯所として利用され、隊ではここの隊士を勘場詰め・御茶屋詰めと呼んでいました。

 

 所在地  下関市大字吉田

 交通   JR小月駅からバス14分「東行庵入口」下車、徒歩5分

 問い合わせ 下関市観光振興課 083-231-1350

 

奇兵隊陣屋跡

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慶応元年(1865)4月に拠点を吉田に移した奇兵隊は、寺院や民家などに分散して駐屯していましたが、小倉戦争終結後の慶応3年(1867)8月吉田諏訪(すわ)の地を開き、陣屋を築きました。

 

 以後明治2年(1869)11月の解散まで、この地を本拠地としていました。

 陣屋は、堤防を築いた上に、隊士部屋の他、講堂や稽古場、図書館施設などを配し、400人の隊士が規律に従って、訓練が繰り返されました。

 現在も当時の堤防が名残をとどめています。

 

 所在地  下関市大字吉田諏訪

 交通   JR小月駅からバス14分「東行庵入口」下車、徒歩8分

 問い合わせ 下関市観光振興課 083-231-1350

 

法専寺と首切六地蔵

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奇兵隊の陣屋ができるまで、奇兵隊の駐屯所のひとつとして使用されたお寺です。

 寛文4年(1664)、領主山内広通の室、帰命院が開基となり、霊誉上人を開山とし、寺号を改めて法専寺としました。

 

 本尊の阿弥陀如来は、長野善光寺如来をうつしたものといわれ、帰命院がある老僧から譲り受けた秘仏で、二十年ごとに御開帳されます。

 

 境内には、享保17年(1732)大飢饉の餓死者を供養する餓死魂の碑(千人塚)や「首切り地蔵」といわれる六体の地蔵が並んでいます。

 

 言い伝えによれば、維新の頃、松林寺に陣をはっていた少年隊の隊長、鳥尾小弥太が「我が国は、神国であるにもかかわらず、仏教が年に盛んになって、石地蔵までが氾濫しているのはけしからん、君たちに勇気があれば、首をはねてこい」と命令しました。隊員は、これにより六体の地蔵の首を切り落としたということです。

 

 今は、その首の中心に鉄棒を打ち込み、セメントで首をつないでいるそうです。

 また山手の墓地には、小倉戦争で戦死した奇兵隊士八名の墓があります。

 

 所在地  下関市大字吉田地方吉田五区埴生口

 交通   JR小月駅からバス16分「宗地」下車、徒歩20分

 問い合わせ 法専寺 083-284-0754

 

常関寺と十六羅漢

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寛永5年(1628)領主、山内大隅守広通が建立し、長府功山寺第三世、三庭和尚を迎え開山とし、電光禅院と称したが、万治元年(1658)山内縫殿就通のとき寺号を常関寺と改め、さらに享保15年(1730)山内縫殿広通が山号を明月山と改めた。

 

 本堂の背後には享保17年(1732)の豪雨とイナゴの大発生による飢饉で餓死した者への、亡魂追善供養のため奉納された、釈迦如来を中心に左右に文殊・普賢の二菩薩があり、そのまわりに表情豊かな16の羅漢像が並んでいます。

 

 幕末には奇兵隊の病院が置かれたところで、負傷や病気で亡くなった隊士8名の墓があります。

 

 所在地  下関市大字吉田1062-1

 交通   JR小月駅からバス16分「宗地」下車、徒歩30分

 問い合わせ 常関寺 083-284-0551

 

蓮台寺

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竹林にかこまれ風情のある閑静な参道は、「哲学の道」と名付けられています。

 

 一千年以上の歴史をもつ古刹で、花山天皇(984〜986年在位)の時世に九州筑紫へ派遣された勅使が、航行中豊浦灘で嵐に会い危なくなったとき、この山から光輪が輝き間もなく嵐が静まりつつがなかったといいます。

 

 勅使の上奏を受けた花山天皇は自ら十一面観世音像を作り、寺堂を建立して安置するとともに、白華山蓮台寺の号を賜ったといわれます。

 

 この十一面観音像は、鰐口とともに市文化財に指定されており、十一面観世音像は、年に1回(4月16日)にご開帳されます。

 

 また、白華山の頂上には不動明王が安置されており、これに通ずる山道は八十八カ所の観音像をめぐるハイキングコースとなっています。

 

 所在地  下関市大字吉田地方

 交通   JR小月駅からバス16分「宗地」下車、徒歩37分?

 問い合わせ 下関市観光振興課 083-231-1350

 

湯谷温泉

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美祢市との境、山間の静かなたたずまいに湧く温泉郷。泉質は日本有数の天然ラジウム泉で、リウマチ、神経痛、皮膚病などに効能があるといわれています。

 

 所在地  下関市大字吉田字湯谷

 交通   JR小月駅からバス23分「湯谷温泉」下車、すぐ?

 問い合わせ グランドホテルニュー湯谷 083-284-0012

       不老長寿の湯 湯谷荘 083-284-0221

       吉花亭 083-281-1126

 

横枕小路

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忌宮神社の西側から乃木神社の横を東西に抜ける細い通りは、練塀の路地のなかでも代表的なもので、緑に覆われた練塀と土の道は、情緒にあふれそぞろ歩きを誘います。

 このあたりの練塀は市の文化財に指定されています。

 

 所在地  下関市長府宮の内町3番

 交通   JR長府駅からバス7分「城下町長府」下車、徒歩11分

      JR下関駅からバス23分「城下町長府」下車、徒歩11分

 問い合わせ 長府観光会館 083-246-1120

 

 

長門国惣社跡

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大化改新(645年)により律令制度が全国に施行されると、中央から任地に赴いた国司は、着任後最初の仕事が管内の全ての神社を巡拝することでした。

 しかし時代が下って平安中期以降になると祭祀やしきたりが怠りがちとなり、管内の神社を国府に近い便宜の場所に集めて一社を建て総社とし、そこを詣でることで管内神社の巡拝にかえるようになりました。

 

 長門国府があった長府でも国衙にほど近いこの位置に長門国の総社が建立されており、昭和四十年代までその社の一部を見ることができました。

 このあたりは現在でも惣社町と呼ばれており、総社と同意語で国府時代に総社があった名残です。

 

 所在地  下関市長府惣社町

 交通   JR長府駅からバス7分「城下町長府」下車、徒歩10分

      JR下関駅からバス23分「城下町長府」下車、徒歩10分

 問い合わせ 長府観光会館 083-246-1120