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【彦島八幡宮】神秘の光に導かれた開拓の祖!サイ上り神事の起源と歴史

神秘の光に導かれた開拓の祖

河野通次は伊豫水軍の祖であり、伊豫の国(愛媛県)勝山城主でしたが、保元の乱に敗れて彦島に逃れました。農夫漁夫として再起を図るも、武士の生活に無常を感じ、彦島に永住を決意します。

光り輝く八幡尊像

それから20年後、通次はある日沖で漁をしていると、海上に紫色の雲と黄金色に光る物を見つけます。網で引き揚げると、それは一台の明鏡であり、鏡の裏には八幡尊像が刻まれていました。

神託を受け、社殿を造営

通次は一族の護り本尊と喜び、海辺の一小島に祠を造営し、鏡を納めて「光格殿」と命名しました。これが彦島八幡宮の発祥です。

「サイ上り」神事の始まり

その後、通次は森の楠で刻んだ八幡尊像を光格殿に奉納し、武運長久と一族の繁栄を祈りました。そして、「サァ揚らせ給う」と大声で叫びながら舞を踊り、これが「サイ上り」神事の始まりとなりました。

四代孫・道久の代に現鎮座地へ遷宮

正平四年(1349年)、四代孫・道久は八幡大神の御託宣を受け、現在の鎮座地である「宮ノ原」に社殿を造営しました。

口碑伝説

彦島八幡宮には、河野通次やサイ上り神事に関する様々な口碑伝説が残されています。

歴史と文化を体感できる場所

彦島八幡宮は、彦島の歴史と文化を体感できる貴重な場所です。サイ上り神事の起源や歴史を知り、神秘的な雰囲気を味わってみてはいかがでしょうか。

アクセス:

項目内容
所在地山口県下関市彦島迫町5丁目12-9
交通JR下関駅からバス14分「東圧正門前」下車、徒歩3分下関 I.Cから車14分
問い合わせ彦島八幡宮 083-266-0700

大賀ハス(土井ヶ浜弥生パーク)

 昭和26年(1951)3月3日から4月6日の34日間、千葉県検見川の東京大学農学部厚生農場内の泥炭層を掘り下げ、3月30日に第一番目の古蓮実一粒、4月6日に二粒の実が発掘されました。

 

 昭和26年(1951)5月に大賀博士宅(東京都府中市、現在は無い)で発芽処理、6月に千葉県農業試験所(現県農林総合研究センター)に移され、そのうち一株が生長しました。

 

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 翌昭和27年(1952)4月に三個の蓮根が収穫され、東大園芸試験所(現 東大大学院農学生命研究科附属緑地実験所)、千葉市弁天池に分根、東大の蓮根は、地元の伊原茂氏に栽培委託されました。

 

 昭和27年(1952)7月18日に二千年前の一粒のハスの実が発芽、生長し、淡い紅色の大型一重(ひとえ)の花が咲き、世界の人々が感動されました。

 




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 はじめ、「古代蓮」といわれ、後に、「二千年蓮(別名:大賀バス)」、昭和29年(1954)に千葉県の天然記念物として「検見川の大賀蓮」に指定され、今は千葉県の天然記念物として「検見川の大賀蓮」、略して「大賀蓮」、通称「大賀ハス」と呼ばれています。 

 

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 大賀ハスは、ひとつぶの古蓮実が、三個の蓮根となり、その後、実や蓮根により、国内外150箇所以上に移植され育てられて、人々は、この花が咲く季節(例年の開花は6月中旬より)を楽しみにしています。

 

 所在地  下関市豊北町神田上891-8

 交通   JR山陰本線 長門二見駅からバス15分「土井ヶ浜」下車、徒歩3分

      下関 I.Cから車で63分

 問い合わせ 土井ヶ浜遺跡・人類学ミュージアム 083-788-1841

附野薬師東山寺と俵石: 歴史、信仰、自然が織りなす神秘の空間

下関市豊北町神田附野に位置する附野薬師東山寺は、海士ヶ瀬を眼下に望む丘に建ち、航海の安全、眼病治癒、安産などの霊仏として広く信仰を集める寺院です。

1. 歴史と信仰

1.1 弘法大師と薬師如来

寺伝によると、本尊の薬師如来は弘法大師空海が自ら彫刻したもので、804年に唐から帰国する際に船中に安置し、806年に当地に建立されたとされています。

その後、弘法大師は北国巡錫の折に海士ヶ瀬で暴風雨に遭遇しますが、薬師如来の示現によって難を逃れ、当地に上陸した際に自作の尊像を安置したと伝えられています。

1.2 附野の地名の由来

弘法大師が尊像を安置した場所が現在の附野であり、このことから「附野」という地名の由来となったとも言われています。

1.3 眼病治癒の霊験

江戸時代初期の承応2年(1653)、当地の久太郎が夢のお告げによって眼病治癒の灸を授かり、以来、眼病治癒の霊仏として広く信仰を集めるようになりました。

1.4 七年に一度の御開帳

御本尊の薬師如来は七年に一度御開帳され、多くの人々が参拝に訪れます。

2. 俵石と観涛園

2.1 自然の造形が生み出した俵石

境内にそびえる「俵石」は、玄武岩層の露頭が自然の造形によってまるで俵を積み重ねたように見えることから名付けられた巨石です。

柱状節理と呼ばれる玄武岩特有の形状が横方向に現れている珍しい地質学的景観であり、昭和60年(1985)には下関市指定文化財に指定されています。

2.2 松陰先生も愛した観涛園

俵石を含む庭園は「観涛園」と呼ばれ、明治維新の先覚者吉田松陰先生も北浦巡歴の際に訪れ、「播き尽きぬ宝の種や俵石」と詠んでいます。

松陰先生は、観涛園の美しい景観と俵石の神秘的な雰囲気に深く感銘を受けたとされています。

2.3 俵屋と来見田家

観涛園を所有する来見田家は、かつて「俵屋」という屋号を持つ庄屋であり、附野薬師東山寺とのつながりが深い旧家です。

御本尊厨子の鍵を預かるなど、寺院の維持管理に重要な役割を果たしてきました。

3. 附野薬師東山寺の魅力

3.1 歴史と信仰が織りなす神秘的な空間

弘法大師ゆかりの霊仏として信仰を集める附野薬師東山寺は、歴史と信仰が織りなす神秘的な空間が広がっています。

3.2 自然と景観が調和した美しい境内

海士ヶ瀬を望む丘に建つ寺院からは、美しい海の景色を眺めることができます。

また、俵石をはじめとした自然の造形が生み出した景観は、見る者に深い感銘を与えてくれます。

3.3 歴史と自然、文化を体感できる場所

附野薬師東山寺は、歴史、信仰、自然、文化が融合した貴重な場所です。

参拝を通して、日本の伝統文化や歴史に触れることができます。

4. アクセス情報

  • 所在地:下関市豊北町神田附野
  • 交通:
    • JR山陰本線 特牛駅からバス13分「薬師寺」下車、徒歩2分
    • 下関I.Cから車で72分
  • 問い合わせ:附野薬師東山寺 083-786-0243

お亀銀杏(亀山八幡宮): 悲劇と感謝の物語が織りなす美しい伝説

下関市中之町にある亀山八幡宮内のおかめ明神は、海峡の潮の流れを鎮めるために人柱となった遊女「お亀」の悲劇と感謝の物語が伝承される神社です。

お亀の勇敢な決断

江戸時代初期、亀山八幡宮一帯は島でしたが、街の発展のために陸続きにする埋め立て工事が行われました。しかし、急流によって工事は難航し、人柱を立てることが決まりました。

当時、稲荷町(現・赤間町)の遊女「お亀」は、疱瘡を患い顔に「アバタ」がありました。

「お亀」は、自分の命が町の人々の役に立つならと、人柱として申し出ました。

人柱となり、工事を成功に導く

月明かりの夜、「お亀」は白衣に身を包み、海へと消えていきました。

人々は「お亀」の尊い犠牲に感謝し、工事を急ピッチで進めました。

すると、不思議なことに潮の流れは穏やかになり、工事は無事に完成しました。

お亀銀杏と八丁浜

人々は「お亀」の功績を称え、境内にイチョウの木を植えて「お亀イチョウ」と名づけました。

このイチョウは、秋になると無数の斑点のある実をつけ、「お亀ギンナン」と呼ばれました。

明治時代には天然痘除けのお守りとして、現在では無病息災、延命長寿のご利益があるとして人気があります。

また、「お亀」の犠牲によって埋め立てられた浜は「八丁浜」と呼ばれ、毎年5月には五穀豊穣を祈願する五穀祭が行われます。

祭では、「八丁浜エラヤッチャ」と呼ばれる独特の囃子に合わせて杓文字を叩きシャギリ踊る「八丁浜踊り」が奉納されます。

八丁浜踊り

八丁浜踊りは、博多の「博多どんたく」のルーツとも言われ、「お亀」さんの勇敢な精神を讃えるとともに、豊作への感謝の気持ちを表現しています。

アクセス情報

  • 所在地:下関市中之町1-1
  • 交通:
    • JR下関駅からバス7分「唐戸」下車、徒歩5分
  • 問い合わせ:亀山八幡宮 083-231-1323

まとめ

お亀銀杏と八丁浜踊りは、悲劇と感謝の物語が織りなす、下関市亀山八幡宮の貴重な文化遺産です。

歴史と文化に触れ、人柱となった遊女「お亀」の勇敢な精神に思いを馳せてみてはいかがでしょうか。

川棚温泉:青龍伝説に秘められた深い物語

 平成13(2001)年、川棚温泉のすぐそばに舟郡(ふなごおり)ダムが完成し、青龍の伝説にあやかって「青龍湖」と名づけられました。

青龍伝説

 遠い昔、とようらの地の奥深い森に囲まれた泉に、水の神様として一匹の青龍が住んでいました。

 青龍の住む泉はどんな日照りでも枯れることなく、青龍に与えられた清らかで豊富な水により、農作物は豊かに育ち浦々ではたくさんの魚がとれました。

 しかし、ある時この地を大地震が襲いました。大地震は一夜にして青龍の住む泉を熱湯へと変え、山を崩し、泉を埋めてしまったのです。そして青龍も住む場所を失った悲しさから病気になり死んでしまいました。

 青龍と泉を失った村では長く日照りが続き、作物は枯れ、人々は病気に苦しみました。困った村人達は、青龍を祀るための社をつくり、この土地の守り神として人々の生活を守ってくれるよう祈り続けました。

 そんなある日、村人が青龍の住む泉のあった場所に畑をつくろうとして地面を掘ると、そこから温泉が湧き出したのです。

 不思議なことに温泉の湯を浴びると、それまで病気で苦しんでいた人たちは元気になったといいます。

 しかし、その後月日はめぐり温泉が枯れてしまうと、青龍のことも人々の記憶から忘れられようとしていました。すると応永年間(1394~1427)、再びこの地を日照りと疫病が襲いました。

 川棚を見下ろす小高い山の中にある三恵寺の住職であった「怡雲(いうん)和尚」は、厄災に苦しむ人々を助けたい一心で仏に祈り続けました。

 そんなある晩、怡雲和尚の枕元に薬師如来が現れました。薬師如来は枕元で、和尚にこの土地に住む青龍の伝説と人々の病気を治した不思議な温泉の物語を告げました。

 怡雲和尚は薬師如来の霊告をもとに、忘れられていた温泉を再び掘り返す決心をし、周辺の村人の協力を得て作業に取りかかると、見事に温泉を掘り起こしました。

 青龍の伝説と薬師如来の霊告のとおり、その温泉の湯を浴びると人々の病気は次々に回復したといいます。

 再び平穏を取り戻した村人たちは、温泉がもう二度と枯れないように伝説の青龍を温泉と村の「守護神」としてお祀りすることを決め、祈りを欠かさないようつとめました。

以来、数百年の月日が経ちますが、今も青龍の伝説は語り継がれ、青龍権現(松尾神社)に守られた温泉は枯れることなく沸き続けているのです。

松尾神社は、京都右京区松尾に御鎮座の元官弊大社松尾神社より、天正年間(1573〜1592)に当所守護神として御分霊を勸請奉斎しました。

当社一名青龍権現と称せしときもあり、温泉の源に住みし青龍を併せ祭ったとも云う。

アクセス

所在地  下関市豊浦町川棚湯町

交通   JR山陰本線 川棚温泉駅からバス4分「川棚温泉」下車、すぐ

     下関 I.Cから車で32分

     小月 I.Cから車で27分

問い合わせ 川棚温泉観光協会 083-772-0296

蚕種祭:日本養蚕発祥の地で歴史と文化に触れる伝統行事

日本養蚕発祥の地、下関市

今から約1800年前、秦の始皇帝の子孫である功満王が、仲哀天皇に蚕種を献上したのが、日本における養蚕の始まりとされています。その歴史を刻む「蚕種渡来の地」の碑は、山口県下関市にある忌宮神社境内に建立されています。

碑の建立と歴史

高さ約6.3メートル、重さ約37.5トンの自然石は、山口県最大級の大きさを誇ります。昭和8年(1933年)に、全国からの寄付によって建立されました。碑文には、日本への蚕種渡来の歴史と、この地が養蚕発祥の地であることが記されています。

毎年3月28日開催:蚕種祭

毎年3月28日には、「蚕種祭」が開催されます。祭典では、蚕の豊作を祈願し、生糸つむぎや機織りの実演が行われます。伝統的な衣装や機織りを見学し、日本の養蚕文化を肌で感じることができます。

アクセス

  • JR長府駅からバス7分「城下町長府」下車、徒歩5分
  • JR下関駅からバス23分「城下町長府」下車、徒歩5分

問い合わせ

  • 忌宮神社:083-245-1093

4. アクセス情報

項目内容
所在地山口県下関市長府宮ノ内町1-18
交通* JR長府駅からバス7分「城下町長府」下車、徒歩5分 * JR下関駅からバス23分「城下町長府」下車、徒歩5分
問い合わせ忌宮神社:083-245-1093

壇ノ浦の悲劇:平家滅亡の象徴「平家の一杯水」

栄華の夢、散る:壇ノ浦の戦いで平家一門が滅亡

源平盛衰記のクライマックス、壇ノ浦の戦いは、寿永四年(1185)三月二十四日、関門海峡で行われました。平知盛率いる平家軍は、源義経率いる源氏軍に圧倒され、壮絶な海戦の末に滅亡しました。

海に消えた安徳天皇:二位ノ尼の壮絶な最期

敗北を悟った平家一門は次々と海へ身を投じました。安徳天皇はわずか八歳という幼さで、二位ノ尼に抱かれて入水しました。

悲劇の象徴:武将たちの無念を語る「平家の一杯水

戦いに敗れ、命からがら岸にたどり着いた平家の武将は、わずかな水溜まりを見つけ、喉の渇きを癒そうとしました。しかし、最初の一口は真水だったのに、二口目は海水になっていたのです。これは、平家の無念を象徴する逸話として語り継がれています。

歴史と文学が織りなす物語:赤間神宮と周辺の史跡

赤間神宮には、安徳天皇を祀る御神殿をはじめ、平家一門の供養碑などが建立されています。また、周辺には「平家の一杯水」の史跡など、歴史と文学が融合した見どころが数多くあります。

アクセス情報:

公共交通機関:

  • JR下関駅からバス15分「前田」下車、徒歩5分

車:

  • 下関ICから約20分

徒歩:

  • JR下関駅から約40分

問い合わせ:

  • 下関市観光振興課:083-231-1350

夫婦岩と注連縄の伝説と由来

夫婦岩(男岩と女岩)は、下関市豊北町二見浦に位置しています。国道191号を挟んで、山側に夫婦岩・注連縄張りの由来の碑が建立されており、隔てた海の中に夫婦岩がそびえています。

伝説によれば、二見浦の背後、馬路山に棲む龍が台風で大時化となる日、夫婦岩の間を通り、本郷沖、壁島の龍権社(りゅうごんしゃ)に御詣りされるとされています。この龍伝説のある夫婦岩の注連縄張りの起りは、約百五十年前の嘉永年間(1848〜1854)にさかのぼります。

当時、二見浦は沿岸漁業が盛んであり、地元の漁民が豊漁と海での安全を祈願するために両親健在の若者らを選び、一月十一日の手斧(ちょうな)始めの日に、この夫婦岩に注連縄を渡す神事を始めたとされています。それ以来、当地区の年中行事の一つとして定着し、北浦一帯に広く知られています。

現代では新春早々の一月二日の夜明けを待って綱打を開始し、褌姿の男衆が若潮で禊をした後、夫婦岩によじ登り、注連縄を張り替えます。岩下では残りの男衆が注連縄を竹ノ棒の間(かん)の又(また)で支え、その張り具合を調整します。注連縄張りの作業を無事終えると、男衆は御神酒で祝杯をあげ、今年一年の豊漁と息災を祈願します。

夫婦岩と注連縄の概要

  • 夫婦岩
    • 男岩:5間(約9メートル)
    • 女岩:3.5間(約6メートル)
  • 注連縄
    • 長さ:打上げ十五間(約27メートル)
    • 房の数:平年十二下り・閏年十三下り
    • 重量:約五十三貫(約200キロ、ワイヤー入り)

この美しい景勝地は、下関市豊北町二見にあり、JR山陰本線の長門二見駅から徒歩15分でアクセスできます。詳細な問い合わせは、豊北総合支所地域振興課(083-782-1914)までお願いします。

関門海峡の冬を彩る神秘的な儀式「しめなわ祭」

幻想的な霧に包まれた海峡に、しめなわが架かる

冬の関門海峡といえば、濃霧が有名です。そんな深い霧の中、海に浮かぶ烏帽子岩にしめなわを張る「しめなわ祭」が毎年12月10日に行われます。

海の神様への願いを込めて

古くから伝わるこの神事は、烏帽子岩が海の神様であると信仰されていたことに由来します。神職は海に渡り、長さ約8メートルのしめなわを張り替え、五穀豊穣と航海の安全を祈願します。

幻想的な雰囲気に包まれて

早朝、まだ薄暗い海峡に神職の船が近づくと、濃霧の中から烏帽子岩が姿を現します。神職は岩に登り、しめなわを張り替え、海峡を行き交う船を見守ります。

冬の関門海峡を彩る風物詩

しめなわ祭は、関門海峡の冬を彩る風物詩として、多くの観光客が訪れます。濃霧に包まれた幻想的な雰囲気の中で行われる儀式は、見る者に深い感銘を与えるでしょう。

しめなわ祭: 航海の安全と豊漁を願う関門海峡の冬の風物詩

下関市壇之浦町にある烏帽子岩は、海難防止の守り神として地元の漁師たちから敬われています。

大石が倒れた後に起こった災難

昔、この大石が激しい潮の流れによって海中に倒れたことがありました。

大石が倒れて十日あまり経った頃から、壇ノ浦の町内に大雨、台風、火災、疫病と悪いことが続くようになりました。

町の人々は不安になり、毎日集まって相談しましたが、解決策が見つかりませんでした。

老漁夫の夢のお告げ

ある日、老漁夫は夢枕に狐が現れ、「大石を早く起こさねば災難は更に続くであろう」と告げられました。

大石起こしとしめなわ祭の始まり

老漁夫は町の人々に夢のお告げを伝え、皆で協力して大石を起こすことにしました。

町内の者が総がかりで作業を行い、ようやく大石を起こすことに成功しました。

人々は喜び合い、大石に注連縄を飾ったり、お酒を供えたりして、お祭りをしました。

災難の終焉と豊漁

大石を起こした後は、災害がなくなり、嵐もおさまって、魚がたくさんとれるようになりました。

しめなわ祭の現在

しめなわ祭は、この故事に由来する航海の安全と豊漁を願う祭りです。

毎年12月上旬に、壇之浦地区の海中に立つ烏帽子岩で行われています。

地元の赤間神宮の神職が岩に登って、しめ縄(長さ5メートル、重さ20キロ)を張り、お神酒などをまく神事です。

関門海峡の冬の風物詩として有名で、多くの人々が訪れます。

アクセス情報

  • 所在地:下関市壇之浦町6番?
  • 交通:
    • JR下関駅からバス12分「みもすそ川」下車、徒歩3分
  • 問い合わせ:赤間神宮 083-231-4138