附野薬師と俵石

海士ヶ瀬を眼下に見る丘に建つ。

海士ヶ瀬で難破された弘法大師が航海安全を祈願して建立したと伝えられ、本尊は薬師如来、脇侍仏(きょうじぶつ)は日光・月光の両菩薩を安置して、いずれも弘法大師作という。

 俗間(ぞっかん)では昔から「御薬師」と呼んで航海の安全の他、眼病治癒、安産などの霊仏(霊験 (れいげん) あらたかな仏。)として広く信仰を集めています。

平成4年(1992)に附野海岸に漂着した木彫りの十一面観音像も納められています。往古は豊田村華山の末寺でした。

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境内の「附野薬師如来の由来」には次のように記されています。

 

當山に安置し奉る本尊薬師如来は、弘法大師一刀三礼(いっとうさんらい)の御作仏にして延暦二十三年(804)御入唐の砌(みぎり)、船中に於て御彫刻あらせられし尊像なり。

 大同元年(806)御帰朝の節供奉(ぐぶ)され、その後御化益(けやく)の為め北国へ御巡錫(じゅんしゃく)の折柄当地の沖海士ヶ瀬御通船の時、暴風俄に起り、逆浪(げきろう)して御船も既に危き處に、不思議に薬師如来の示現(じげん)を蒙り(こうむり)給い程なく当地の濱辺に着船ましましたり。(依って郷名を附野と申す。)

 御自作の尊像を供奉(ぐぶ)し給いて、当地へ上らせ給う。

 

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当郷久太郎宅(今の俵屋是なり)に訪い(おとない)寄り給い、暫く錫(しゃく)を止め庭前の石上に尊像を御鎮座ありて、主久太郎を霊前に招き給い、大師仰せられけるは、此所尊像有縁(うえん)の地なるとて霊地を求め給うに、此山正しく尊慮(そんりょ)に叶う霊場(れいじょう)なれば、此処に止め置くべしとて忝けなくも久太郎へ御附属(ふしょく)ありて大師は月山の霊場へ越へさせ給う。

 その後此処へ一宇を建立(回春山東福寺)して久太郎尊敬浅からず多年御守護をなし、累代(るいだい)に及べり。

 それより数百年の星霜(せいそう)を経て、同姓の中祖久太郎一子久市へ、霊夢に告げて曰く(承應二年(1653)四月朔日の夜)汝等へ眼病治癒(ちゆ)の灸(きゅう)を授くべし、とて十一穴を指揮(しき)ましまし永世(えいせい)諸人へ施す(ほどこす)べし、とありありと御示現(じげん)を蒙り、爾来(じらい)相伝(そうでん)して、諸人の病苦を救はしむること、萬人の知るところなり。

 

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 大悲、素より十二の誓願ましまし、諸病悉除(しつじょ)慈恩(じおん)一切衆生誰か其の利益を蒙らざらん仰ぐべし信ずべし、諸人結縁(けちえん)の為め茲に御薬師の縁起由来を記す。

     天明四年(1784)辰八月   回春山東福寺

                      快音謹白

 (註)昭和十七年(1942)寺号を東山寺と改む。

 毎年五月八日が縁日ですが、七年に一回御作仏の開扉が行われ、厄払いの流葬、流れ潅頂の儀式(施儀鬼の搭姿回向)が行われるのもこの時です。

昭和三十五年(1960)がそのあたり年でした。

 御守護をなす当、来見田家庭園を「観涛園(かんとうえん)」と称し、この庭に有名な俵石(玄武岩層の露頭なり)があり、この石の名から「俵屋」なる屋号がうまれました。

「観涛園(かんとうえん)」入口の解説掲示板には次のように記されています。

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「観涛園の俵石(かんとうえんのたわらいし)」

  昭和六十年(1985)二月十八日下関市指定文化財に指定されています。

 このあたかも俵を積み上げたように見える石は「俵石」と呼ばれている。

これは、自然のまま庭石としているので、その景観がすぐれているだけでなく、柱状節理には珍しく横に現われていることから地質学の資料としても価値が高い。

 松蔭先生は、北浦巡歴の際、ここに立ち寄られて、

 「播き尽きぬ宝の種や俵石」

 と讃えられました。

また、庭の所有者である来見田(くるみだ)家は、観涛園(かんとうえん)と呼ばれ、昔は俵屋(たわらや)という庄屋であった。附野薬師東山寺(つくのやくしとうざんじ)とのつながりが深く御本尊厨子の鍵を預かる旧家である。

下関市教育委員会

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 この庭は、明治維新の先覚者吉田松陰先生が、藩命を奉じて大津豊浦両郡及び赤間関海岸の防備を視察したときこの地に来られ、「廻浦紀略」の当該日には次のように記されています。

嘉永二年(1849)七月十二日

 雨すでに晴れたれども、風波未だ恬(やすら)かならず、故に尚宿に在り。

 午後一僕(ぼく)を率い附く野に至り、庄屋次郎兵衛が宅に過ぎり俵石を視、島戸浦に至る。

大河と云う處臺場宜し(よろし)。浦、戸数二百軒。

 阿川に至り日和山の臺場に登り、本浦東西及び今浦山の臺馬を遠見(えんけん)す。時に船は尚阿川に在り、船に上り要用(ようよう)の諸具を携へ、苅東山を越えて市中の宿所に帰る。

市中より阿川へ行くの里程、島戸へ廻れば二里、苅東坂を越せば一里、山路と雖平坦にして騎して走るべし。

 晩に向はんとして浦究(うらぎわめ)大田要蔵を訪(おとな)う、談話久しく夜に入りて帰る。

肥中湊の内ヶ輪、畔頭(くろがしら)平兵衛組、三右衛門の抱え地、城山烟硝倉に宜し(よろし)。

禮 明  

参考文献

松陰先生遺著 第2巻 廻浦紀略, 吉田庫三編(東京:民友社,明41,42 )

 所在地  下関市豊北町神田附野

 交通   JR山陰本線 特牛駅からバス13分「薬師寺」下車、徒歩2分

      下関 I.Cから車で72分

 問い合わせ 附野薬師東山寺 083-786-0243

 

お亀銀杏(亀山八幡宮)

「イチョウ」の大木を背にして、昔は島であった亀山八幡宮の一帯を埋め立てるときに、人柱となった遊女 「お亀」を祀った小さな祠(お亀大明神)があり、池には多くの亀が飼われています。

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 神社地は古くは島でしたが、江戸時代の始め頃、街の発展のために陸続きにする埋め立て工事が、毛利藩によっておこされまりました。

しかし海峡の潮の流れは速く、ひと岩沈めればひと岩を流す急流であり、工事は多大の工費と、人の命を犠牲にするのみで一向に進みませんでした。

 

町では「これはきっと神様のお怒りに触れたためだだ」と噂が広まり、とうとう困った役人は人柱を立てることを決め、さっそく海峡の流れを鎮めるため、「人身御供(ひとみごくう )としての人柱募集の高札」を立てました。

 当時、この辺りには、稲荷町(現・赤間町。当時江戸の吉原・京の島原につぐ三大遊廓の一つ)の「お亀」という疱瘡を病み顔に「アバタ」のある遊女がいました。

 

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町かどに立った人柱募集の高札を見て「お亀」は、このまま生きて身を汚すより、「こんな私でも町の人たちのお役に立つなら ば」と決心して申し出ました。

 

月明かりの夜です。「お亀」は白衣に身をつつみ、合掌して一歩一歩どす黒い海へ消えていくその姿は、仏様を思わせる気高さがあって人々は、その後姿にいつまでも念仏を唱え続けました。

「 お亀」が人柱となって海底に消えた翌日から、人々は急いで準備にとりかかり「お亀」の尊い犠牲を無にするなと急ピッチで工事を進め埋めたて工事は速い潮に悩まされる事もなく、見る見るうちに完成したと言います。

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 人々は「お亀」の功績をたたえ、亀山八幡宮にイチョウの木を植えて「お亀イチョウ」と名づけました。

生長して毎年秋に無数の実を結ぶイチョウには、何故かたくさんの斑点があり、「お亀」さんの顔の「アバタ」が残ったものと伝えられ「お亀ギンナン」と呼ばれていました。

この実は明治の頃に天然痘が流行した時は、多くの人に疫病除けのお守りとして求められたということです。

『お亀イチョウ」は昭和20年(1945)の空襲により、焼失しましたが、「お亀」さんの遺志を継ぐかのように焼け残った株から新しい芽 が出て、今では何事も無かったかのように豊かに生い茂っています。その名残である古株の跡は、今も残されています。

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「お亀イチョウ」は、秋にはたくさんの実を落し、不思議にも「お亀」さんの「アバタ」のような無数の斑点があることから、「お亀ギンナン」と呼ばれ、明治の頃には、疱瘡除けのお守りとし、今では無病息災、延命長寿のご利益があるとして、境内で売られています。

 

 神社では5月に五穀豊穣を祈る五穀祭が行われます。その時に氏子中では、「八丁浜エラヤッチャ」と合いの手を入れながら、八丁浜の囃しに合わせ杓文字を叩きシャギリ踊る、八丁浜(ハッチャハマ。八丁浜踊り、八丁浜シャギリともいう)が行われます。

いつしか博多にお株を奪われてしまいましたが、杓文字を打ち鳴らしがら「ぼんち可愛いやねんねしな」と唄って踊る踊りは、この下関が発祥の地と言われています。

「八丁浜」とは「お亀」さんの犠牲によって埋め立てられた浜地の広いことを言い、「エラヤッチャ」とは、「お亀」さんは立派な奴だの意味です。

 江戸時代、毛利藩は派手な歌舞音曲や酒宴などを禁じていましたが、八丁浜の期間中は各所に「賑わい勝手」の高札が立てられどんなに騒いでも咎められることはありませんでした。

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「八丁浜総踊り」に先立ち、「お亀明神」前で「お亀明神顕彰祭」が行われています。

戦後この行事は衰退しましたが、昭和60年(1985)市民祭として開催されることになり、現在しものせき海峡まつりにあわせ賑やかに復活し継承されています。

 

 

 所在地  下関市中之町1-1

 交通   JR下関駅からバス7分「唐戸」下車、徒歩5分

 問い合わせ 亀山八幡宮 083-231-1323

川棚温泉の青龍伝説

 平成13(2001)年、川棚温泉のすぐそばに舟郡(ふなごおり)ダムが完成し、青龍の伝説にあやかって「青龍湖」と名づけられました。

 

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青龍伝説

 遠い昔、とようらの地の奥深い森に囲まれた泉に、水の神様として一匹の青龍が住んでいました。

 青龍の住む泉はどんな日照りでも枯れることなく、青龍に与えられた清らかで豊富な水により、農作物は豊かに育ち浦々ではたくさんの魚がとれました。

 

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 しかし、ある時この地を大地震が襲いました。大地震は一夜にして青龍の住む泉を熱湯へと変え、山を崩し、泉を埋めてしまったのです。そして青龍も住む場所を失った悲しさから病気になり死んでしまいました。

 青龍と泉を失った村では長く日照りが続き、作物は枯れ、人々は病気に苦しみました。困った村人達は、青龍を祀るための社をつくり、この土地の守り神として人々の生活を守ってくれるよう祈り続けました。

 そんなある日、村人が青龍の住む泉のあった場所に畑をつくろうとして地面を掘ると、そこから温泉が湧き出したのです。

 不思議なことに温泉の湯を浴びると、それまで病気で苦しんでいた人たちは元気になったといいます。

 

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 しかし、その後月日はめぐり温泉が枯れてしまうと、青龍のことも人々の記憶から忘れられようとしていました。すると応永年間(1394~1427)、再びこの地を日照りと疫病が襲いました。

 川棚を見下ろす小高い山の中にある三恵寺の住職であった「怡雲(いうん)和尚」は、厄災に苦しむ人々を助けたい一心で仏に祈り続けました。

 そんなある晩、怡雲和尚の枕元に薬師如来が現れました。薬師如来は枕元で、和尚にこの土地に住む青龍の伝説と人々の病気を治した不思議な温泉の物語を告げました。

 

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 怡雲和尚は薬師如来の霊告をもとに、忘れられていた温泉を再び掘り返す決心をし、周辺の村人の協力を得て作業に取りかかると、見事に温泉を掘り起こしました。

 青龍の伝説と薬師如来の霊告のとおり、その温泉の湯を浴びると人々の病気は次々に回復したといいます。

 再び平穏を取り戻した村人たちは、温泉がもう二度と枯れないように伝説の青龍を温泉と村の「守護神」としてお祀りすることを決め、祈りを欠かさないようつとめました。

 

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以来、数百年の月日が経ちますが、今も青龍の伝説は語り継がれ、青龍権現(松尾神社)に守られた温泉は枯れることなく沸き続けているのです。

松尾神社は、京都右京区松尾に御鎮座の元官弊大社松尾神社より、天正年間(1573〜1592)に当所守護神として御分霊を勸請奉斎しました。

当社一名青龍権現と称せしときもあり、温泉の源に住みし青龍を併せ祭ったとも云う。

 

所在地  下関市豊浦町川棚湯町

交通   JR山陰本線 川棚温泉駅からバス4分「川棚温泉」下車、すぐ

     下関 I.Cから車で32分

     小月 I.Cから車で27分

問い合わせ 川棚温泉観光協会 083-772-0296

重要文化財(旧国宝)厚母大仏

下関市豊浦町厚母安養寺に安置されている大仏は旧国宝であって、右手は手の平を前にして屈し胸、左手は手の平を上にしてひざにおき、両手とも第一指と第二指の先を接して「上品下生(じょうぼんげしょう)」という印を結んでいる木造阿弥陀如来坐像です。
像の高さは八尺八寸八分(296.1センチメートル)の丈六仏(じょうろくぶつ)です。丈六の仏像とは、一丈六尺の仏像のこと、坐像の場合はその半分八尺の仏像です。

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この大仏は由縁(ゆえん)において詳細を欠くが、伝えるところによると聖武天皇の天平十三年(741)に国状不安を鎮撫(ちんぶ)するために、国毎に国分寺(こくぶんじ)とともに、国分尼寺(こくぶんにじ、こくぶにじ)が建立された。

正式名称は国分寺が金光明四天王護国之寺(こんこうみょうしてんのうごこくのてら)、国分尼寺が法華滅罪之寺(ほっけめつざいのてら)であった。

 長門は、古くは穴門(あなと)と呼ばれ、穴戸と書くこともあった。

穴門とは海峡 (関門海峡)を指しており、日本神話にも「穴戸神」の名が見える。

穴門国造(くにのみやつこ)の領域と、阿武国造(くにのみやつこ)の領域をあわせて、7世紀に穴戸国が設置され、7世紀後半に長門国に改称した。

 国府は豊浦郡にあって、現在の下関市長府宮ノ内町の忌宮神社の近辺と推定されるが、遺跡はまだ見つかっていない。

国分寺は、長門の国府(長府)のそばに置かれ、国庁とともにその国の最大の建築物であったものとおもわれる。

 

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この国分寺境内には四十九院の寺々があって、「国分寺古跡由来書」によると、その中で安養寺及び極楽寺を以て長門国中の諸末寺に主君・官府などの裁定。指図。指示。また、それを伝えた。

「豊府志略」の国分寺の条に境内西方の安養寺を以て奥の院とす。とあるから国分尼寺の奥の院であった。

国分尼寺は光明皇后の発願によって創建されたものであるが、その後律令体制が弛緩(しかん)し、官による財政支持がなくなると、衰頽(すいたい)して廃寺となった。

 長府功山寺の開基基智門寺殿功山玄誉大居士(法名)が安養寺の寺号を厚母に遷(うつ)し小刹(さつ)を再建された。

(慶安三年 (1650)十月三日毛利秀元死亡 法号「智門寺殿功山玄誉大居士」以後世々毛利家の香華寺となり、功山寺と改称。)

 

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 この大仏は、国分寺の奥の院、安養寺の本尊であったが廃絶したため吉母の東向坊(安養寺の末寺)に遷(うつ)され、そのあと東向坊も廃絶して、一時露座(ろざ)仏となっていた。

 この大仏は本那六大仏の一つであって坂上田村麿の祈念(胎内背に田村将軍祷念佛の墨書銘文あり。)であり、名匠春日の作と伝えている。

坂上田村麻呂 (従四位下)は、延暦十五年(796)十月二十七日鎮守将軍を兼ねているから、国家鎮護のために要衝(ようしょう)の地に大刹(さつ)を選び大仏を安置したものであろう。

 その後蒙古が頻りに長門の海辺を窺うにあたり鎌倉幕府は北浦海岸の防備を固めると共に国分寺内四十九院の寺々で外敵降伏国土安穏の祈祷が行われた。

その当時までは安養寺は長府の国分寺境内奥の院であったものである。

東向坊に遷(うつ)された年代は不明である。

 昭和四年(1929)四月官報発表文部省告示第一七九号を以て国宝に指定され、

同十年(1935)四月に修理が行われた。

 

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境内地の解説掲示を記す

国指定重要文化財

厚母大仏(木造阿弥陀如来坐像)

昭和二十五年(1950)八月二十五日指定

    豊浦町厚母郷 宗教法人 安養寺 所蔵

 厚母大仏は、昭和四年(1929)に文部省告示で国宝に指定され、昭和二十五年(1950)、文化財保護法の施行により重要文化財に指定された。

  像高八尺八寸八分(296.1センチ)のいわゆる丈六仏(丈六、半丈六の仏像とは、各一丈六尺又は八尺の仏像のことである 。坐像の場合はその半分即ち八尺或は四尺の仏像が夫々丈六或は半丈六である。)で、近郷では「厚母の大仏」「安養寺の黒仏」と称されている。

 内りを施した楠材の寄木造りで、現在は古色塗りを施す上品下生の印(親指と人さし指で輪を作る。右手が胸、左手ひざ。)を結ぶ通形の如来坐像である。

この特徴の一つに膝張りと膝高との関係がある。

古像ほど膝が高く、膝高を一とすれば、膝張り五であるが、時代が下がると膝高が低くなる。

木像の膝張り( 226.3cm)と膝高(41.8cm)の割合は、膝張りに対し膝が低くなっている。

これは大仏であるために下から仰ぐと、頭と膝の均合いがくずれてしまい、頭がより小さく映ることを防ぐ工夫である。

 藤原末期の造像で破損は少なく、当代有数の様式を具えた技巧は素晴らしい。

一丈に近い巨像にまとめあげて、相好堂々、大作としてこの地方に雄視するものである。

 

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大仏殿

 大仏殿は、文化庁、山口県、下関市の補助事業として新築した。

この建物は、この地域に残る土塀や土壁のある風景と一体となるように設計した。

そのため外壁には地元の土を固めた約千五百個もの版築ブロックを積み上げるという日本初の工法を採用した。

その外観はあたかもこの地域に多くある土壁の蔵を彷彿とさせている。

 

構造 鉄筋コンクリート・一部鉄骨造り平屋建て

竣工 平成十四年(2002)十月三十日

遷座 平成十五年(2003)十一月十四日

設計管理 (株)隈研吾建築都市設計事務所(東京都)

左官監督 久住章(兵庫県西宮市)

施工   (有)岡埼建設(山口県下関市)

     (有)福田左官店(山口県三隅町)

下関市教育委員会

 

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

 

 所在地  下関市豊浦町厚母郷下郷

 交通   JR山陰本線 梅ヶ峠駅からバス2分「厚母」下車、徒歩3分

      JR山陰本線 梅ヶ峠駅から徒歩15分

      下関 I.Cから車で29分

 問い合わせ 安養寺 083-772-1611

 

平家の一杯水

 源平最後の合戦、壇ノ浦の戦いが行われたのは寿永四年(1185)三月のこと。

 それより先、平家総帥の平宗盛は、一ノ谷(兵庫県)・屋島(香川県)での合戦で相次いで源氏軍に敗退。

瀬戸内海の西端に位置する長門国彦島(現在の下関市彦島)に陣を敷いていた平知盛の元まで落ち延び、起死回生を賭けた地が、関門海峡だった。

 彦島の平家水軍を撃滅すべく、義経は摂津国の渡辺水軍、伊予国の河野水軍、紀伊国の熊野水軍などを味方につけて840艘(『吾妻鏡』)の水軍を編成する。

平家軍は500艘(『吾妻鏡』)で、松浦党100余艘、山鹿秀遠300余艘、平家一門100余艘(『平家物語』)の編成であった。

宗盛の弟の知盛が大将として指揮を取ることになった。

『平家物語』によれば、知盛は通常は安徳天皇や平家本営が置かれる大型の唐船に兵を潜ませて、鎌倉方の兵船を引き寄せたところを包囲する作戦を立てていた。

源氏軍が現れたという知らせが入るや、平知盛は門司にしつらえた仮御所から数え年8歳の安徳天皇や平家全員を船に乗せ、海峡へ。戦船は両軍合わせておよそ千数百隻。

 

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 海峡の赤間関で源平が失合(やあわせ=開戦)することになった日時を、『平家物語』は元暦(げんりゃく)二年(1185)三月二十四日とし、攻め寄せる義経軍水軍に対して、知盛率いる平家軍が彦島を出撃して、平家は新中納言平知盛を総大将に、およそ五百余艘が赤間関の対岸、豊前国田ノ浦に陣取り、

源氏は九郎判官義経を大将に、武将たちを乗せた舟、およそ八百余艘は、満珠・干珠の沖合いに、 

 午の刻(12時ごろ)(『玉葉』による。)、戦いが始まった。両軍とも、できるだけ潮流に左右されずに操船できる時間帯を選んだのであろう。

両軍は静かに船を進め源氏の白旗、平家の赤旗は、しだいに近づく。 やがて源平両軍の船は、その距離三十余町をへだてて相対し、平家の大将平知盛は大音声をはりあげて全軍を激励した。

両軍の舟から一斉に矢が飛びかい矢にあたって海に落ちる者、舟を近づけ熊手を使ってひっかき落とす者、白旗、赤旗入り乱れての激戦。

 範頼軍は三万余騎(『源平盛衰記』による。)をもって陸地に布陣して平家の退路を塞ぎ、岸から遠矢を射かけて義経軍を支援した。

『平家物語』によれば和田義盛は馬に乗り渚から沖に向けて遠矢を二町、三町も射かけたという。

 関門海峡は潮の流れの変化が激しく、平家軍はこれを熟知しており、早い潮の流れに乗って平家方は序盤は鎌倉方が静まり返るほど矢を射かけて、海戦に慣れない坂東武者の義経軍を押した。

義経軍は満珠島・干珠島のあたりにまで追いやられ、勢いに乗った平家軍は義経を討ち取ろうと攻めかかる。

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ここで不利を悟った義経が敵船の水手(かこ)や梶取(漕ぎ手)を射るよう命じた。

この時代の海戦では非戦闘員の水手・梶取を射ることは戦の作法に反する行為だったが、義経はあえてその掟破りを行い防御装備の貧弱な水手・梶取たちが犠牲となり、平家方の船は身動きが取れなくなった。

 戦いは初めこそ、潮流に乗った平家が互角以上に戦い優勢だったが、射尽すと逆に水上からは義経軍に、陸上からは範頼軍に射かけられるままとなった。

やがて潮の流れが変わって反転すると、義経軍はこの流れに乗ってこの時とばかり、ホラ貝を吹き、鐘を鳴らし、勇気を奮い起こし、勢いを盛り返して反撃にてて、平家軍を押しまくる。

平家軍は壊滅状態になり、勝敗は決した。敗北を悟った平家一門は次々と海上へ身を投じた。

 『平家物語』には平家一門の最後の様子が描かれている。

 知盛は建礼門院や二位ノ尼らの乗る女船に乗り移ると「見苦しいものを取り清め給え、これから珍しい東男を御目にかけましょう」と笑った。

これを聞いた二位ノ尼は死を決意して、幼い安徳天皇を抱き寄せ、宝剣を腰にさし、神璽を抱えた。安徳天皇が「どこへ行くのか」と仰ぎ見れば、二位ノ尼は「弥陀の浄土へ参りましょう。波の下にも都がございます」と答えて、安徳天皇とともに海に身を投じた。

『吾妻鏡』によると二位ノ尼が宝剣と神璽を持って入水、按察の局が安徳天皇を抱いて入水したとある。続いて建礼門院ら平氏一門の女たちも次々と海に身を投げる。

 武将たちも覚悟を定め、教盛は入水、経盛は一旦陸地に上がって出家してから還り海に没した。資盛、有盛、行盛も入水している。

剛の者である教経は、鬼神の如く戦い坂東武者を討ち取りまくるが、知盛が既に勝敗は決したから罪作りなことはするなと伝えた。

 

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 教経は、ならば敵の大将の義経を道連れにせんと欲し、義経の船を見つけてこれに乗り移った。教経は小長刀を持って組みかからんと挑むが、義経はゆらりと飛び上がると船から船へと飛び移り八艘彼方へ飛び去ってしまった。義経の「八艘飛び」である。

義経を取り逃がした教経に大力で知られる安芸太郎が討ち取って手柄にしようと同じく大力の者二人と組みかかった。

教経は一人を海に蹴り落とすと、二人を組み抱えたまま海に飛び込んだ。『平家物語』に描かれた平家随一の猛将として知られ屋島の戦い、壇ノ浦の戦いで義経を苦しめた教経の最後だ。

 知盛は「見るべき事は見つ」とつぶやくと、鎧二領を着て乳兄弟(ちきょうだい)の伊賀 平内左衛門家長とともに入水した。

敗戦を覚悟した平家一門は次々と海へ身を投げていった。これは、範頼軍の九州制圧、義経軍の四国制圧、鎌倉方による瀬戸内海制海権の奪取という包囲・孤立化の完成に伴う必然的結末であった。

漕ぎ手 を失った平家の船は進退の自由を失い、混乱しつつ壇之浦に追いつめられて、申の刻(16時ごろ)(『玉葉』による。)平家一門の多くが死ぬか捕らえられ、戦いは源氏の勝利に終わった。

 

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 栄華を誇った平家が滅亡に至った治承・寿永の乱の最後の戦いである。

この戦いにより、平氏(伊勢平氏の平清盛一族)は二十五年にわたる平氏政権の幕を閉じた。

勝利を収めた清和源氏の頭領・源頼朝は、鎌倉に幕府を開き武家政権を確立させる。

 平家のある者は傷を受けながらも、ようやく岸にたどり着いた者もいた。

そのうちの一人肩と足に矢を受けて海に落ち、深手を負いながらも命がけで岸 に泳ぎ着いた平家の武将は、ふと前の方を見ると山すその渚にわずかな水溜まりがあった。

 武将はのどの渇きを癒そうと、痛むからだを引きずってやっとの思いで水溜まりに近づき、手のひらにすくい、その水を一口飲んでみると、それはおいしい真水だった。

夢中になってもう一口と、また手のひらにすくい、再び水を口にしたところ、思わず吐き出してしまった。真水は海水にかわっていたのです。

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後世の人はこれを「平家の一杯水」と呼び今に伝える。

 

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 碑の近くの渚に湧き出る清水(火の山からの伏流水)には祠が立てられ、いまも元旦の若水として赤間神宮の神前に供えられます。

 「更に東駆前田に入れば埋没数十年に及びしを本市技師が苦心発掘せし平家一杯水あり。」 と、下関市史(市制施行ー終戦)の観光、昭和時代に記されている。

 国道9号線沿い、海峡グルメ しずか本館の西側に「平家の一杯水」という石碑が建立されています。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

 

所在地  下関市前田町2-1

 交通   JR下関駅からバス15分「前田」下車、徒歩5分

 問い合わせ 下関市観光振興課 083-231-1350

 

夫婦岩・注連縄張

 

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 下関市豊北町二見浦には国道191号を挟んで、山側に夫婦岩・注連縄張りの由来の碑が建立されており、隔てた海の中に夫婦岩があります。

夫婦岩・注連縄張りの由来には次のように記されています。

 伝説によると、二見浦の背後、馬路山に棲む龍が台風で大時化となる日、夫婦岩の間を通り、本郷沖、壁島の龍権社(りゅうごんしゃ)に御詣りされるという。

 この龍伝説のある夫婦岩の注連縄張りの起りは、今より約百五十年前の嘉永年間(1848〜1854)にさかのぼる。

当時、二見浦は沿岸漁業が盛んであり、地元の漁民が豊漁と海での安全を祈願するために両親健在の若者らを選び一月十一日手斧(ちょうな)始めの日、この夫婦岩に注連縄を渡す神事を始めたとされている。

 

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それ以来、当地区の年中行事の一つとして定着し、北浦一帯に広く知られ今日に至っている。

 この郷土の誇る勇壮な伝統行事は時代の変遷により多少の変更がなされている。

現代では新春早々の一月二日の夜明けを待って綱打を開始し、褌姿の男衆が若潮で禊をした後、夫婦岩によじ登り、注連縄を張り替える。

岩下では残りの男衆が注連縄を竹ノ棒の間(かん)の又(また)で支え、その張り具合を調整する。

 注連縄張りの作業を無事終えると、男衆は、御神酒で祝杯をあげ、今年一年の豊漁と息災を祈願する。

 

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夫婦岩と注連縄の概要

一、 夫婦岩 男岩 五  間(九メートル)

       女岩 三.五間(六メートル)

一、 注連縄 長 さ 打上げ十五間(二十七メートル)

       房の数 平年十二下り・閏年十三下り

       重 量 約五十三貫(二百キロ・ワイヤー入り)

   平成十七年七月吉日

      下関市豊北町二見自治会

 

 所在地  下関市豊北町二見

 交通   JR山陰本線 長門二見駅から徒歩15分

 問い合わせ 豊北総合支所地域振興課 083-782-1914

 

岩谷十三仏


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岩谷十三仏の由来解説板には次のように記されています。

(伝承による)

 後奈良天皇の天文二十年八月、陶隆房(のちの晴賢)に居城山口を追われた大内家三十一代義隆公主従が、隠れ家として岩谷が浴八丈岩に隠棲されていましたが追手が迫り、脱出に当り世話をしてくれたお礼にと巻物一巻(大内家秘法ばんばら楽)を残されました。

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弘治元年ごろ大旱魃のとき熊野神社にばんばら楽を奉納したところ、忽ち大雨となり旱魃を免れ、部落民は義隆公の供養として十三仏を作ったといわれています。
 

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 十三仏とは亡くなった方の、初七日から三十三回忌まで十三回の追善供養を司さどる慈悲あふれる仏菩薩で、極楽浄土へ往生することを願います。

                                 

平成九年三月 岩谷十三仏保存会

 

十三仏の名称

 

  初 七日    不動明王     百箇日    観世音菩薩

  二 七日    釈迦如来     一周忌    勢至菩薩

  三 七日    文殊菩薩     三回忌    阿弥陀如来

  四 七日    普賢菩薩

  五 七日    地蔵菩薩     七回忌    阿しゅく如来

  六 七日    弥勒菩薩    十三回忌    大日如来

  七 七日    薬師如来   三十三回忌    虚空蔵菩薩

 

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 高い所に見張仏として文殊菩薩と普賢菩薩がおられます。

 三回忌(三年目)死亡した時を一回目として三回目と数えるため、実際は死亡した年から数えると二年目です。以下七回忌、十三回忌、三十三回忌とも同様です。

 人が亡くなった日を忌日といい、毎月巡ってくるその日を月忌といいます。 そして毎年一回巡ってくる亡くなった月の忌日が祥月命日です。

 

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 インドの輪廻思想からインドでは亡くなった人への供養として、亡くなった日から七日目ごとに七回の法要が行われ、(7×7)四十九日が過ぎると死者は他の生を受けると考えられました。

仏教が中国に渡り、当地の道教と習合していく過程で、晩唐の時期に十王信仰は成立し、三回供養日が増えました。

日本では鎌倉時代には十王をそれぞれ十仏と相対させるようになり、時代が下るにつれてその数も増え、江戸時代には十三仏信仰なるものが生まれるに至りました。

 仏事の法要は大抵七日ごとに七回あるのは、死者への減罪の嘆願を行うためであり、追加の追善法要は救い損ないを無くすための受け皿として機能していたようです。

 十三仏に名を連ねる仏のうち八尊が「干支」の守護仏として名を連ねています。

子 千手観音菩薩・丑 虚空蔵菩薩・寅 虚空蔵菩薩・卯 文殊菩薩

辰 普賢菩薩  ・巳 普賢菩薩 ・午 勢至菩薩 ・未 大日如来

申 大日如来  ・酉 不動明王 ・戌 阿弥陀如来・亥 阿弥陀如来

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

 

 所在地 豊浦町川棚中小野

 交通   JR山陰本線 川棚温泉駅からバス13分「岩谷口」下車、徒歩20分

      JR山陰本線 川棚温泉駅から車で10分

      小月 I.Cから車で29分

 問い合わせ 豊浦町観光協会 083-774-1211

 

虚無僧墓

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 虚無僧墓の由来によると天保年間(1830〜1843)のころ、一人の虚無僧が現在の下関市豊浦町小野の地にやって来て、尺八を吹いているとき以外は酒ばかり飲んでいました。

そんな虚無僧を村人たちは、敬遠していました。

ところが、村の娘が山賊に襲われたとき、娘を無事に救い出したのは、この虚無僧でした。

 

弘化3年(1846)9月15日、朝から「ウンウン」唸っていた虚無僧は、突然、川棚川の河原に走りだし、大きな岩に頭を二度三度ぶっつけて倒れました。

死ぬまぎわに虚無僧は、

「私は脳を冒されたために何もしてあげられなかったが、私の墓を建てて酒を供えてくれれば、あなたたちの苦しみを和らげてあげよう」

と言い残して息を引きとりました。

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村人たちは、虚無僧が頭の痛みを和らげるために酒を飲んでいたことを始めて知り、墓を建てて供養しました。

 河原にあった虚無僧の墓は、大正13年(1924)、現在の場所に建てかえられました。

 このような由来もあって、この虚無僧墓は、頭の病気に御利益があるということで、酒を供えに参拝者が訪れているといわれます。

 

 所在地  下関市豊浦町川棚中小野

 交通   JR山陰本線 川棚温泉駅からバス16分「虚無僧墓」下車、徒歩すぐ

      JR山陰本線 川棚温泉駅から車で11分

      小月 I.Cから車で30分

 問い合わせ 豊浦町観光協会 083-774-1211

 

小野小町の墓

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解説板には次のように記されています。

絶世の美女であった小町は、小野氏一族の文才の血筋を受け若いころから和歌の世界で活躍しました。

しかし、男たちの視線を一身に集めた麗しの歌人も、歳月とともに色あせてきました。

もともと自尊心の強かった小町には耐えられないことでした。

老いさらばえた姿を京の都にさらせまいと、小町は全国を点々と流浪しました。

流浪を重ねた末の小町は、川棚に着きました。

村人たちは、親切で温かでした。

小町は愛用の銅鏡を片時も話さず、日ごと失われていく美貌に無常を感じながら、晩年をひっそりと暮らしこの地に果てたと伝えられています。

 

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「小野小町ゆかりの地」は日本全国28都道府県余りにに及ぶと言い、墓石の中央にはめ込まれた丸い銅鏡は小町が肌身離さず持っていたもので、ここ小野という地名も小町にちなむと言われています。

 次の歌からも美女であった事が窺えます。

花の色は移りにけりないたづらに我が身世にふるながめせし間に 「古今集」

上の歌は、百人一首にも選ばれています。

 

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生まれには多数の説がありますが現在の秋田県湯沢市小野(旧雄勝郡雄勝町小野)という説が主流となっており、晩年も同地で過ごしたとする地域の言い伝えが残っているそうです。

 京都市山科区小野は小野氏の栄えた土地とされ、小町は晩年この地で過ごしたとの説もあります。

ここにある随心院には、卒塔婆小町像や文塚など史跡が残っており、前述の「花の色は..」の歌は、花が色あせていくのと同じく自分も年老いていく姿を嘆き歌ったものとされています。

出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

 

 所在地  下関市豊浦町川棚中小野

 交通   JR山陰本線 川棚温泉駅からバス16分「虚無僧墓」下車、徒歩すぐ

      JR山陰本線 川棚温泉駅から車で11分

      小月 I.Cから車で30分

 問い合わせ 豊浦町観光協会 083-774-1211

 

雲雀毛(ひばりげ)の名馬

 天文十二年(1543)の春、御崎山の 牧場より雲雀毛(ひばりげ)の名馬は、出生後日も浅く母馬死亡す。

 

飢と乳の恋しさに牧場をかけめぐれども母馬の姿無く波打ち際に立ちて恋しくいななけば、その時遙か海の彼方の蓋井島にこだまして聞こゆるに 母馬彼処(あしこ)にありと思いけん、忽ち海中に飛び入り死力を尽して泳ぎ渡り島中かけめぐれども母馬の姿見えず、又悲しくいななけば其の声御崎山に響くを聞き又海中に飛び入りて泳ぎ帰る。

 

斯(か)くして風雨も激浪も物かわ二浬(3,704メートル)の海を押し渡り泳ぎ帰るに、日を経るに従いついに自得したる水泳の術素晴しく見る里人も驚嘆したりと。

 

斯くの如く海を渡り岩山をかけめぐるに、蹄(ひづめ)はくろがねの如く体格又大にて名馬出ずとの声四方に高まりぬ。

 

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此の事、山口居城防長二州の領主大内義隆公の聞くところとなり家臣の地方郷士に生虜を命ぜられたり。

於茲(ここにおいて)青山の城主黒井判官為長、石堂山の城主豊川左近安延、茶臼山の城主永富下総貞恒、芦山の城主金田三郎乗貞、鯖釣山の城主石川左衛尉政近等力を尽くして生虜らんとせしが荒馬(あらうま)にて手に負えず。

 

此の時金田三郎乗貞大力勇将にして漸く(ようやく)生虜る事を得て義隆公に献ず。

 

其の功によりて黄金十枚と新地三百石を賜りぬ。

 

後日調練せられたる此の名馬は、常に義隆公の乗馬として愛されたり。

 

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 然る処天文20年(1551)義隆公は、家臣の陶晴賢にはい叛せられ山口落城。

 

陶の軍勢に急追せられて各地に転戦す。

 

八ヶ浜に陣取りし黒井判官為長も敗戦して青山落城、殘兵退きて川棚ヶ原にて戦い又敗れ芦山の麓にて悉く討死せり。

 

義隆公の乗馬も此の時深い傷を受けて斃れる。

 

義隆公哀借の情に堪えず、されば金森左近等の武将によりて其の頃鬱蒼たる大樹たりし樟の木の下に運びて此の名馬を埋めたり。

 当の大樟樹は大昔から存在するもので樹齢はおよそ千年余です。

  樹幹の周囲(約11メートル)

  樹の高さ (約21メートル)

  樹枝の最長(約27メートル)

 大正11年(1922)10月12日史蹟名勝天然記念物に指定されました。

 この森に大内義隆公の愛馬を祀ったことから霊馬の森と言います。

 後年地方の里人より名馬の霊を弔う為毎年3月28日慰霊祭を行います。

 「大楠の枝から枝へ青あらし」

 そばには山頭火の句碑が、昭和58年(1983)に建立されています。

 義隆公は暫らく川棚小野岩谷ヶ浴八丈岩に隠棲せられた事跡があります。

豊浦町の「天然記念物樟の森」解説板による。

 

 所在地  下関市豊浦町川棚下小野

 交通   JR山陰本線 川棚温泉駅からバス11分「浜井場」下車、徒歩6分

      JR山陰本線 川棚温泉駅から車で8分

      小月 I.Cから車で26分

 問い合わせ 豊浦町観光協会 083-774-1211