「伝説・民話」カテゴリーアーカイブ

附野薬師東山寺と俵石: 歴史、信仰、自然が織りなす神秘の空間

下関市豊北町神田附野に位置する附野薬師東山寺は、海士ヶ瀬を眼下に望む丘に建ち、航海の安全、眼病治癒、安産などの霊仏として広く信仰を集める寺院です。

1. 歴史と信仰

1.1 弘法大師と薬師如来

寺伝によると、本尊の薬師如来は弘法大師空海が自ら彫刻したもので、804年に唐から帰国する際に船中に安置し、806年に当地に建立されたとされています。

その後、弘法大師は北国巡錫の折に海士ヶ瀬で暴風雨に遭遇しますが、薬師如来の示現によって難を逃れ、当地に上陸した際に自作の尊像を安置したと伝えられています。

1.2 附野の地名の由来

弘法大師が尊像を安置した場所が現在の附野であり、このことから「附野」という地名の由来となったとも言われています。

1.3 眼病治癒の霊験

江戸時代初期の承応2年(1653)、当地の久太郎が夢のお告げによって眼病治癒の灸を授かり、以来、眼病治癒の霊仏として広く信仰を集めるようになりました。

1.4 七年に一度の御開帳

御本尊の薬師如来は七年に一度御開帳され、多くの人々が参拝に訪れます。

2. 俵石と観涛園

2.1 自然の造形が生み出した俵石

境内にそびえる「俵石」は、玄武岩層の露頭が自然の造形によってまるで俵を積み重ねたように見えることから名付けられた巨石です。

柱状節理と呼ばれる玄武岩特有の形状が横方向に現れている珍しい地質学的景観であり、昭和60年(1985)には下関市指定文化財に指定されています。

2.2 松陰先生も愛した観涛園

俵石を含む庭園は「観涛園」と呼ばれ、明治維新の先覚者吉田松陰先生も北浦巡歴の際に訪れ、「播き尽きぬ宝の種や俵石」と詠んでいます。

松陰先生は、観涛園の美しい景観と俵石の神秘的な雰囲気に深く感銘を受けたとされています。

2.3 俵屋と来見田家

観涛園を所有する来見田家は、かつて「俵屋」という屋号を持つ庄屋であり、附野薬師東山寺とのつながりが深い旧家です。

御本尊厨子の鍵を預かるなど、寺院の維持管理に重要な役割を果たしてきました。

3. 附野薬師東山寺の魅力

3.1 歴史と信仰が織りなす神秘的な空間

弘法大師ゆかりの霊仏として信仰を集める附野薬師東山寺は、歴史と信仰が織りなす神秘的な空間が広がっています。

3.2 自然と景観が調和した美しい境内

海士ヶ瀬を望む丘に建つ寺院からは、美しい海の景色を眺めることができます。

また、俵石をはじめとした自然の造形が生み出した景観は、見る者に深い感銘を与えてくれます。

3.3 歴史と自然、文化を体感できる場所

附野薬師東山寺は、歴史、信仰、自然、文化が融合した貴重な場所です。

参拝を通して、日本の伝統文化や歴史に触れることができます。

4. アクセス情報

  • 所在地:下関市豊北町神田附野
  • 交通:
    • JR山陰本線 特牛駅からバス13分「薬師寺」下車、徒歩2分
    • 下関I.Cから車で72分
  • 問い合わせ:附野薬師東山寺 083-786-0243

お亀銀杏(亀山八幡宮): 悲劇と感謝の物語が織りなす美しい伝説

下関市中之町にある亀山八幡宮内のおかめ明神は、海峡の潮の流れを鎮めるために人柱となった遊女「お亀」の悲劇と感謝の物語が伝承される神社です。

お亀の勇敢な決断

江戸時代初期、亀山八幡宮一帯は島でしたが、街の発展のために陸続きにする埋め立て工事が行われました。しかし、急流によって工事は難航し、人柱を立てることが決まりました。

当時、稲荷町(現・赤間町)の遊女「お亀」は、疱瘡を患い顔に「アバタ」がありました。

「お亀」は、自分の命が町の人々の役に立つならと、人柱として申し出ました。

人柱となり、工事を成功に導く

月明かりの夜、「お亀」は白衣に身を包み、海へと消えていきました。

人々は「お亀」の尊い犠牲に感謝し、工事を急ピッチで進めました。

すると、不思議なことに潮の流れは穏やかになり、工事は無事に完成しました。

お亀銀杏と八丁浜

人々は「お亀」の功績を称え、境内にイチョウの木を植えて「お亀イチョウ」と名づけました。

このイチョウは、秋になると無数の斑点のある実をつけ、「お亀ギンナン」と呼ばれました。

明治時代には天然痘除けのお守りとして、現在では無病息災、延命長寿のご利益があるとして人気があります。

また、「お亀」の犠牲によって埋め立てられた浜は「八丁浜」と呼ばれ、毎年5月には五穀豊穣を祈願する五穀祭が行われます。

祭では、「八丁浜エラヤッチャ」と呼ばれる独特の囃子に合わせて杓文字を叩きシャギリ踊る「八丁浜踊り」が奉納されます。

八丁浜踊り

八丁浜踊りは、博多の「博多どんたく」のルーツとも言われ、「お亀」さんの勇敢な精神を讃えるとともに、豊作への感謝の気持ちを表現しています。

アクセス情報

  • 所在地:下関市中之町1-1
  • 交通:
    • JR下関駅からバス7分「唐戸」下車、徒歩5分
  • 問い合わせ:亀山八幡宮 083-231-1323

まとめ

お亀銀杏と八丁浜踊りは、悲劇と感謝の物語が織りなす、下関市亀山八幡宮の貴重な文化遺産です。

歴史と文化に触れ、人柱となった遊女「お亀」の勇敢な精神に思いを馳せてみてはいかがでしょうか。

川棚温泉:青龍伝説に秘められた深い物語

 平成13(2001)年、川棚温泉のすぐそばに舟郡(ふなごおり)ダムが完成し、青龍の伝説にあやかって「青龍湖」と名づけられました。

青龍伝説

 遠い昔、とようらの地の奥深い森に囲まれた泉に、水の神様として一匹の青龍が住んでいました。

 青龍の住む泉はどんな日照りでも枯れることなく、青龍に与えられた清らかで豊富な水により、農作物は豊かに育ち浦々ではたくさんの魚がとれました。

 しかし、ある時この地を大地震が襲いました。大地震は一夜にして青龍の住む泉を熱湯へと変え、山を崩し、泉を埋めてしまったのです。そして青龍も住む場所を失った悲しさから病気になり死んでしまいました。

 青龍と泉を失った村では長く日照りが続き、作物は枯れ、人々は病気に苦しみました。困った村人達は、青龍を祀るための社をつくり、この土地の守り神として人々の生活を守ってくれるよう祈り続けました。

 そんなある日、村人が青龍の住む泉のあった場所に畑をつくろうとして地面を掘ると、そこから温泉が湧き出したのです。

 不思議なことに温泉の湯を浴びると、それまで病気で苦しんでいた人たちは元気になったといいます。

 しかし、その後月日はめぐり温泉が枯れてしまうと、青龍のことも人々の記憶から忘れられようとしていました。すると応永年間(1394~1427)、再びこの地を日照りと疫病が襲いました。

 川棚を見下ろす小高い山の中にある三恵寺の住職であった「怡雲(いうん)和尚」は、厄災に苦しむ人々を助けたい一心で仏に祈り続けました。

 そんなある晩、怡雲和尚の枕元に薬師如来が現れました。薬師如来は枕元で、和尚にこの土地に住む青龍の伝説と人々の病気を治した不思議な温泉の物語を告げました。

 怡雲和尚は薬師如来の霊告をもとに、忘れられていた温泉を再び掘り返す決心をし、周辺の村人の協力を得て作業に取りかかると、見事に温泉を掘り起こしました。

 青龍の伝説と薬師如来の霊告のとおり、その温泉の湯を浴びると人々の病気は次々に回復したといいます。

 再び平穏を取り戻した村人たちは、温泉がもう二度と枯れないように伝説の青龍を温泉と村の「守護神」としてお祀りすることを決め、祈りを欠かさないようつとめました。

以来、数百年の月日が経ちますが、今も青龍の伝説は語り継がれ、青龍権現(松尾神社)に守られた温泉は枯れることなく沸き続けているのです。

松尾神社は、京都右京区松尾に御鎮座の元官弊大社松尾神社より、天正年間(1573〜1592)に当所守護神として御分霊を勸請奉斎しました。

当社一名青龍権現と称せしときもあり、温泉の源に住みし青龍を併せ祭ったとも云う。

アクセス

所在地  下関市豊浦町川棚湯町

交通   JR山陰本線 川棚温泉駅からバス4分「川棚温泉」下車、すぐ

     下関 I.Cから車で32分

     小月 I.Cから車で27分

問い合わせ 川棚温泉観光協会 083-772-0296

壇ノ浦の悲劇:平家滅亡の象徴「平家の一杯水」

栄華の夢、散る:壇ノ浦の戦いで平家一門が滅亡

源平盛衰記のクライマックス、壇ノ浦の戦いは、寿永四年(1185)三月二十四日、関門海峡で行われました。平知盛率いる平家軍は、源義経率いる源氏軍に圧倒され、壮絶な海戦の末に滅亡しました。

海に消えた安徳天皇:二位ノ尼の壮絶な最期

敗北を悟った平家一門は次々と海へ身を投じました。安徳天皇はわずか八歳という幼さで、二位ノ尼に抱かれて入水しました。

悲劇の象徴:武将たちの無念を語る「平家の一杯水

戦いに敗れ、命からがら岸にたどり着いた平家の武将は、わずかな水溜まりを見つけ、喉の渇きを癒そうとしました。しかし、最初の一口は真水だったのに、二口目は海水になっていたのです。これは、平家の無念を象徴する逸話として語り継がれています。

歴史と文学が織りなす物語:赤間神宮と周辺の史跡

赤間神宮には、安徳天皇を祀る御神殿をはじめ、平家一門の供養碑などが建立されています。また、周辺には「平家の一杯水」の史跡など、歴史と文学が融合した見どころが数多くあります。

アクセス情報:

公共交通機関:

  • JR下関駅からバス15分「前田」下車、徒歩5分

車:

  • 下関ICから約20分

徒歩:

  • JR下関駅から約40分

問い合わせ:

  • 下関市観光振興課:083-231-1350

夫婦岩と注連縄の伝説と由来

夫婦岩(男岩と女岩)は、下関市豊北町二見浦に位置しています。国道191号を挟んで、山側に夫婦岩・注連縄張りの由来の碑が建立されており、隔てた海の中に夫婦岩がそびえています。

伝説によれば、二見浦の背後、馬路山に棲む龍が台風で大時化となる日、夫婦岩の間を通り、本郷沖、壁島の龍権社(りゅうごんしゃ)に御詣りされるとされています。この龍伝説のある夫婦岩の注連縄張りの起りは、約百五十年前の嘉永年間(1848〜1854)にさかのぼります。

当時、二見浦は沿岸漁業が盛んであり、地元の漁民が豊漁と海での安全を祈願するために両親健在の若者らを選び、一月十一日の手斧(ちょうな)始めの日に、この夫婦岩に注連縄を渡す神事を始めたとされています。それ以来、当地区の年中行事の一つとして定着し、北浦一帯に広く知られています。

現代では新春早々の一月二日の夜明けを待って綱打を開始し、褌姿の男衆が若潮で禊をした後、夫婦岩によじ登り、注連縄を張り替えます。岩下では残りの男衆が注連縄を竹ノ棒の間(かん)の又(また)で支え、その張り具合を調整します。注連縄張りの作業を無事終えると、男衆は御神酒で祝杯をあげ、今年一年の豊漁と息災を祈願します。

夫婦岩と注連縄の概要

  • 夫婦岩
    • 男岩:5間(約9メートル)
    • 女岩:3.5間(約6メートル)
  • 注連縄
    • 長さ:打上げ十五間(約27メートル)
    • 房の数:平年十二下り・閏年十三下り
    • 重量:約五十三貫(約200キロ、ワイヤー入り)

この美しい景勝地は、下関市豊北町二見にあり、JR山陰本線の長門二見駅から徒歩15分でアクセスできます。詳細な問い合わせは、豊北総合支所地域振興課(083-782-1914)までお願いします。

岩谷十三仏: 歴史と信仰が織りなす美しい石仏群

下関市豊浦町川棚中小野にある岩谷十三仏は、室町時代後期に造られた石仏群で、十三仏信仰と干支守護仏信仰が融合した貴重な史跡です。

岩谷十三仏の由来

解説板によると、大内義隆公が陶隆房(後の晴賢)に追われ、岩谷に隠棲していた際に、村人たちに助けを借りたお礼に「ばんばら楽」という巻物を残しました。

その後、大旱魃に見舞われた村人たちは、義隆公への供養と雨乞いのために、ばんばら楽を熊野神社に奉納したところ、たちまち大雨が降り、旱魃から救われたと言われています。

感謝の気持ちを抱いた村人たちは、義隆公の冥福を祈り、十三仏を造立しました。

十三仏とは

十三仏は、亡くなった方の初七日から三十三回忌まで十三回の追善供養を司る仏菩薩です。

それぞれのお仏には慈悲の心が宿り、極楽浄土への往生を願います。

岩谷十三仏の特徴

岩谷十三仏は、自然の岩肌に刻まれた石仏群で、高さは約1メートルから2メートルです。

風雨に削られながらも、穏やかで慈悲深い表情を浮かべており、見る者に深い感慨を与えます。

干支守護仏

十三仏のうち八尊は、干支の守護仏としても信仰されています。

自分の干支の守護仏にお参りすることで、幸運や健康を祈願することができます。

アクセス情報

  • 所在地:下関市豊浦町川棚中小野
  • 交通:
    • JR山陰本線 川棚温泉駅からバス13分「岩谷口」下車、徒歩20分
    • JR山陰本線 川棚温泉駅から車で10分
    • 小月I.Cから車で29分
  • 問い合わせ:豊浦町観光協会 083-774-1211

まとめ

岩谷十三仏は、歴史、信仰、自然が融合した美しい場所です。

静寂な空間に佇む石仏群は、見る者に深い安らぎを与えてくれます。

ぜひ、訪れてみてはいかがでしょうか。

虚無僧墓: 酒好きの虚無僧が救った村娘と頭痛封じの伝説

下関市豊浦町川棚中小野にある虚無僧墓は、酒好きで村人から敬遠されていた虚無僧が、山賊から村娘を救い、頭痛封じの御利益があるとされる伝説的な墓です。

虚無僧と村娘

天保年間(1830〜1843)、尺八を吹いては酒ばかり飲んでいた虚無僧は、村人から敬遠されていました。

しかし、ある日、村の娘が山賊に襲われた時、命懸けで娘を救い出したのは、他ならぬこの虚無僧でした。

虚無僧の最期と遺言

弘化3年(1846)、虚無僧は脳病のため苦しみ、川棚川の河原で大きな岩に頭を二度三度ぶっつけて倒れました。

そして、「私の墓を建てて酒を供えてくれれば、あなたたちの苦しみを和らげてあげよう」と言い残して息を引き取りました。

頭痛封じの御利益

村人たちは、虚無僧が頭の痛みを和らげるために酒を飲んでいたことを知り、墓を建てて供養しました。

その後、虚無僧墓は頭痛封じの御利益があると評判になり、現在も多くの参拝者が訪れています。

アクセス情報

  • 所在地:下関市豊浦町川棚中小野
  • 交通:
    • JR山陰本線 川棚温泉駅からバス16分「虚無僧墓」下車、徒歩すぐ
    • JR山陰本線 川棚温泉駅から車で11分
    • 小月I.Cから車で30分
  • 問い合わせ:豊浦町観光協会 083-774-1211

小野小町の墓:美貌と哀愁の伝説

小野小町の墓は、全国各地に存在しますが、下関市豊浦町川棚にあるこの墓は、小町の晩年の流浪生活と哀愁漂う伝説を伝える貴重な場所です。

解説板の物語

解説板には、絶世の美女として名高い小町が、歳月とともに美貌が衰え、自尊心の強い彼女は老いさらばえた姿を見せまいと全国を流浪したと記されています。

晩年、小町は川棚の地で村人たちの温かさに触れ、愛用の銅鏡を片時も離さず、失われていく美貌に無常を感じながらひっそりと暮らし、この地で果てたと伝えられています。

小野小町ゆかりの地

小野小町ゆかりの地は全国28都道府県以上に存在し、ここ小野という地名も小町に由来すると言われています。

墓石の中央にはめ込まれた丸い銅鏡は、小町が肌身離さず持っていたもので、彼女の美貌と哀愁を象徴する存在となっています。

百人一首にも詠まれた美貌

小町の美貌は、百人一首にも選ばれた「花の色は移りにけりないたづらに我が身世にふるながめせし間に」の歌からも窺えます。

この歌は、花が色あせていくように、自分も年老いていく姿に嘆きを感じているという内容です。

小野小町の生涯

小野小町の生誕地については諸説ありますが、現在の秋田県湯沢市小野が有力とされています。

晩年も同地で過ごしたとする地域の言い伝えも残されていますが、京都市山科区小野で過ごしたとする説もあり、真相は謎に包まれています。

アクセス情報

  • 所在地:下関市豊浦町川棚中小野
  • 交通:
    • JR山陰本線 川棚温泉駅からバス16分「虚無僧墓」下車、徒歩すぐ
    • JR山陰本線 川棚温泉駅から車で11分
    • 小月I.Cから車で30分
  • 問い合わせ:豊浦町観光協会 083-774-1211

まとめ

小野小町の墓は、美貌と哀愁の伝説を伝える貴重な史跡です。

小町の晩年の流浪生活や、失われていく美貌への無常観を感じながら過ごした様子を想像すると、感慨深いものがあります。

ぜひ、この地に足を運んで、小野小町の伝説に思いを馳せてみてはいかがでしょうか。

雲雀毛(ひばりげ)の名馬: 伝説と史跡が織りなす壮大な物語

下関市豊浦町川棚下小野にある「霊馬の森」は、大内義隆公の愛馬「雲雀毛」が眠る史跡です。

誕生と母馬との別れ

天文十二年(1543)春、御崎山の牧場で生まれた雲雀毛は、まだ幼い頃に母馬を失います。

母馬を求めて海を渡り、岩山をかけめぐる雲雀毛の姿は、見る者を驚嘆させました。

名馬の名声と生け捕り

その噂は防長二州の領主大内義隆公の耳に届き、家臣たちは雲雀毛を生け捕りにしようと試みます。

しかし、荒馬である雲雀毛は容易に捕らえることができず、金田三郎乗貞がその大力でようやく生け捕りに成功しました。

義隆公の愛馬として

調練された雲雀毛は、義隆公の愛馬として常にそばに仕えました。

しかし、天文二十年(1551)に陶晴賢の謀反によって山口落城が起こり、義隆公は各地に転戦することになります。

最期と霊馬の森

八ヶ浜に陣取った黒井判官為長も敗戦し、残兵は川棚ヶ原で戦い、芦山の麓で悉く討死しました。

義隆公の乗馬もこの戦いで深い傷を受け、命を落としました。

義隆公は愛馬の死を深く悲しみ、金森左近等の武将によって鬱蒼たる大樹の下に埋葬されました。

千年余の巨木と霊馬の伝説

この大樹は樹齢千年余りと言われる樟であり、大正11年(1922)に史蹟名勝天然記念物に指定されました。

この森は「霊馬の森」と呼ばれ、毎年3月28日には慰霊祭が行われています。

山頭火の句碑と史跡へのアクセス

森には山頭火の句碑も建立されており、義隆公が隠棲した岩谷ヶ浴八丈岩などの史跡も残されています。

アクセス情報

  • 所在地:下関市豊浦町川棚下小野
  • 交通:
    • JR山陰本線 川棚温泉駅からバス11分「浜井場」下車、徒歩6分
    • JR山陰本線 川棚温泉駅から車で8分
    • 小月I.Cから車で26分
  • 問い合わせ:豊浦町観光協会 083-774-1211

鬼の伝説が息づく神秘の奇岩!角島の「鬼の岩」

鬼の岩伝説:鬼たちの壮大な挑戦と神様のいたずら

下関市豊北町角島の海岸にそびえる「鬼の岩」は、その名の通り、鬼が投げたとされる奇岩です。この岩には、古くから語り継がれる壮大な伝説が残されています。

昔々、島戸の高坪山に住んでいた鬼たちは、村人たちを困らせていました。困り果てた村人たちは、住吉大神に相談します。大神は鬼たちと賭けをします。

「一晩のうちに島戸と角島の間の海を陸続きにすることができたら、何でも望みのものをやろう。じゃが、できなかったら山から追放するぞ。」

鬼たちは喜んで挑戦を始めます。夜通し岩を海に投げ込み、海はみるみるうちに陸地へと変わっていきます。

しかし、夜明けが近づき、あと少しで完成というところで、大神は鶏の鳴き声を真似します。

「しまった!もう夜が明けてしまった。」

鬼たちは力尽き、その場に座り込んでしまいます。

角島に眠る鬼の痕跡:鬼の岩へのアクセスと見どころ

鬼が投げたといわれる「鬼の岩」は、角島小学校近くにあります。岩には鬼の手形が残っているとされ、その迫力に圧倒されます。

アクセス

  • JR山陰本線 特牛駅から角島行バス21分「学校横」下車、徒歩5分
  • 小月I.Cから車で71分
  • 下関I.Cから車で80分

周辺の観光スポット

  • 角島大橋:日本海に浮かぶ美しい橋
  • 海士ヶ瀬:干潮時に現れる神秘的な道
  • 角島灯台:歴史ある灯台
  • めのうロード:美しいめのうが拾える海岸

まとめ

「鬼の岩」は、角島の自然と歴史、そして伝説が融合した魅力的なスポットです。鬼の力強さ、神様のいたずら、そして美しい景色を体感しに、ぜひ角島を訪れてみてはいかがでしょうか。

アクセス

交通手段所要時間詳細
JR山陰本線 特牛駅21分角島行バスに乗車、「学校横」下車
小月I.C71分車で角島大橋方面へ
下関I.C80分車で角島大橋方面へ