「城下町長府周辺」カテゴリーアーカイブ

横枕小路

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忌宮神社の西側から乃木神社の横を東西に抜ける細い通りは、練塀の路地のなかでも代表的なもので、緑に覆われた練塀と土の道は、情緒にあふれそぞろ歩きを誘います。

 このあたりの練塀は市の文化財に指定されています。

 

 所在地  下関市長府宮の内町3番

 交通   JR長府駅からバス7分「城下町長府」下車、徒歩11分

      JR下関駅からバス23分「城下町長府」下車、徒歩11分

 問い合わせ 長府観光会館 083-246-1120

 

 

長門国惣社跡

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大化改新(645年)により律令制度が全国に施行されると、中央から任地に赴いた国司は、着任後最初の仕事が管内の全ての神社を巡拝することでした。

 しかし時代が下って平安中期以降になると祭祀やしきたりが怠りがちとなり、管内の神社を国府に近い便宜の場所に集めて一社を建て総社とし、そこを詣でることで管内神社の巡拝にかえるようになりました。

 

 長門国府があった長府でも国衙にほど近いこの位置に長門国の総社が建立されており、昭和四十年代までその社の一部を見ることができました。

 このあたりは現在でも惣社町と呼ばれており、総社と同意語で国府時代に総社があった名残です。

 

 所在地  下関市長府惣社町

 交通   JR長府駅からバス7分「城下町長府」下車、徒歩10分

      JR下関駅からバス23分「城下町長府」下車、徒歩10分

 問い合わせ 長府観光会館 083-246-1120

 

下関市立長府博物館・万骨塔

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博物館

 長府の篤志家、桂弥一(かつらやいち)が、昭和8年に私財を投じて建てた長門尊攘堂を昭和55年(1980)4月に郷土の歴史博物館として開設しました。

 幕末・維新の資料を数多く展示しています。

 主な収蔵品には、長門国鋳銭遺物・長府毛利家遺品・幕末維新関係資料等がああります。

 

 

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万骨塔

 隣接した高さ7.7メートル、直径13メートルの土饅頭型の万骨塔は、明治維新を中心として、国事に命を捧げた名も無き人々の霊を供養するため、弥一が建てたものです。 塚には「一将功成って万骨枯る」の碑と日本各地から寄せられた石が供えられています。

 毎年十月二十日この塔の前で慰霊祭が行われています。

 

 所在地  下関市長府川端一丁目

 交通   JR長府駅からバス7分「城下町長府」下車、徒歩10分

      JR下関駅からバス23分「城下町長府」下車、徒歩10分

 問い合わせ 長府博物館 083-245-0555

 

日頼寺

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極楽寺と呼ばれていましたが、天正年間、毛利元就の四男元清(毛利秀元の父)が父の位牌を安置し、元就の法号「日頼洞春」にちなみ「日頼寺」と改称し、元就の菩提寺としました。

 この日頼寺の境内には、宮内庁の管轄地となっている「仲哀天皇殯歛の地」という一画があります。

 仲哀8年(199)1月に穴門の豊浦宮から、筑紫の橿日宮に移った仲哀天皇は、神がかりした神功皇后に伝えられた神託を信じず、熊襲討伐を強行しましたが成功せず翌9年(200)2月に亡くなられました。

 皇后は大臣武内宿禰に天皇の遺体をひそかに豊浦宮にはこばせ、そこで壇の上という所に祭壇をつくり殯を行い、この地に仮埋葬したという塚が現在でも残されていいます。

 

 所在地  下関市長府侍町1丁目10-1

 交通   JR長府駅からバス9分「松原」下車、徒歩5分

      JR下関駅からバス21分「松原」下車、徒歩5分

 問い合わせ 日頼寺 083-245-0384

下関市立美術館

IMG_0300.JPG狩野芳崖、高島北海、香月泰男など、下関ゆかりの作家の秀作をはじめ、国内外の名画、古代オリエント美術などを収蔵・展示しています。

狩野芳崖 1828〜1888

 藩御用絵師の子として幼い頃から画才を発揮しました。

 維新後の不遇時代を経てフェノロサに見出だされ、新時代を代表する画家として活躍し、名作「悲母観音図」を残しました。

高島北海 1850〜1931

 幼時から画に親しみ、官吏退職後、画家として名を成しました。

 仏留学中に浮世絵や水墨画を紹介し、アール・ヌーヴォーに大きな影響を与えたことでも知られています。

 

 所在地  下関市長府黒門東町1-1

 交通   JR長府駅からバス10分「美術館前」下車、すぐ

      JR下関駅からバス20分「美術館前」下車、すぐ

      下関 I.Cから車で10分

 問い合わせ 美術館 083-245-4131

 

櫛崎城跡

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慶長5年(1600)10月10日関ケ原の役で西軍に付いた毛利氏が、防長2国に減封され長府に支藩をおいた際に、36,200石の初代長府藩主となった毛利秀元が同年11月2日櫛崎を居城と定めました。

 古くは、西の海に勢力を誇っていた藤原純友の配下の稲村影家がつくったともいわれ、その起源は大変古いといえます。大内氏の時代には、内藤隆春がこの城にいました。

 江戸幕府の出した元和元年(1615)閏6月13日の一国一城令によって、山口高嶺城、岩国横山城と共に櫛崎城の城郭が取り壊されました。

 現在は、旧城内にも人家が建ち、石垣や城内の土塀、井戸の跡、櫓門跡などからはわずかに当時の面影をしのぶことができます。

 海に近い高台は、関見台公園として整備され、とおく豊後水道や関門海峡を見渡すことができ、櫛崎城への海からの入り口であった「御舟手」の海岸へも降りることができます。

 

 所在地  下関市長府外浦町1番

 交通   JR長府駅からバス9分「松原」下車、徒歩7分

      JR下関駅からバス21分「松原」下車、徒歩7分

 問い合わせ 長府観光会館 083-246-1120

 

豊功神社

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応神天皇、武内宿祢、穂田元清、毛利秀元をはじめ長府藩歴代の藩主を祭神としているお宮で、むかし、龍神を祭った社であったといわれていますが、慶長7年(1602)毛利秀元が長府藩主として移って来たとき、宮崎八幡宮を安芸国より勧請して中殿とし、左に櫛崎八幡宮、右に高良大明神を祀り、松崎八幡宮というようになりました。

 大正6年(1917)6月に、藩祖秀元以下歴代の藩主を祭った豊功社を忌宮境内からこの地に移して各社を合祀すると、櫛崎、宮崎、松崎という社号を廃して現在の豊功神社としました。

 境内の海側一帯が展望台小公園となっており、神話伝説の島として知られる満珠・干珠の二島を眼下に望むことができます。

 所在地  下関市長府宮崎町4-1

 交通   JR長府駅からバス9分「松原」下車、徒歩7分

      JR下関駅からバス21分「松原」下車、徒歩7分

 問い合わせ 豊功神社 083-246-0124

 

長府沖にある満珠・干珠島

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 その昔、朝鮮から新羅の大軍が攻めてきた時に、神功皇后が龍神から授かった2つの珠(潮干る珠・潮満る珠)を使って、船で近づこうとする新羅軍を「潮干る珠」で足止めし、船を降り攻めてきた新羅軍を「潮満る珠」で滅ぼしました。

 そののち、神功皇后は軍船を整えて、いよいよ新羅へ渡り、敵を打ち破り、やがて神功皇后の軍隊は勇ましく長門の浦に凱旋してきました。

 凱旋の後2つの珠を海中に返すと、この二つの島になったという伝説があります。

 忌宮神社の飛び境内地で、両島の樹木は国の天然記念物に指定されています。

 平家が滅び武士の時代の始まりとなった壇ノ浦の源平船合戦では、海峡の潮流に詳しい長府・串崎の水軍が源氏方へ味方し、源氏はこの島周辺に本陣を構えたといわれます。

 関門海峡のいたるところから望見できますが、二つの島が寄り添うように見える豊功神社や御船手海岸からの風景が最も良いといわれています。

 

 所在地  下関市長府沖

 交通   豊功神社 JR長府駅からバス9分「松原」下車、徒歩7分

           JR下関駅からバス21分「松原」下車、徒歩7分

      御船手海岸 JR長府駅からバス9分「松原」下車、徒歩10分

            JR下関駅からバス21分「松原」下車、徒歩10分

 問い合わせ 長府観光会館 083-246-1120