関門トンネル人道

下関~門司間を徒歩で移動できる関門トンネル人道にやってきました。

みもすそ川公園の向いにあり、とっても良い景色です。

右上にある「国道2号」の標識。

実はこの人道は、国道2号線の自転車歩行者道の扱いなのだそうです。

外は雨模様ですが、人道の中はいつでも快適。

ウォーキングやジョギングをしている方がたくさんおられました。




ナイスビューパーク彦島

老の山公園のふもとにあるナイスビューパーク彦島の風車「ひこしま風丸くん」は、今日も力強くまわっています。

沖に向かうたくさんの船や、ダイナミックに舞うトンビを眺めていると、時間を忘れてしまいます。

ちょっと休憩、にちょうど良い場所ですね。




南風泊市場

下関の特産品「ふく」。その「せり」でおなじみの南風泊市場にやってきました。

昼間の漁港はおだやかで、のんびりとしています。

奥に見えるのが南風泊市場です。

シーズンには、この市場の中で活気あふれる「せり」がおこなわれています。

想像するだけでわくわくしますね。




みもすそ川公園

一日に4回流れの向きをかえる関門海峡。せまいところでは両岸の幅は700メートルあまりで、ここみもすそ川公園では、対岸の景色をはっきりと見ることができます。

 

壇之浦合戦の古戦場を一望できる場所でもあり、公園内には海を背景に義経・知盛像が建っています。




また、幕末には外国船を砲撃した攘夷戦の砲台跡地でもあります。壇之浦砲台は前田砲台と共に重要な役割を果たしましたが、連合艦隊に大敗し、すべての砲台が占領・破壊されました。外国の進んだ軍備にめざめた長州藩は、開国・倒幕へと転換し、歴史を大きく動かします。

いくつもの長州砲のレプリカが海峡をにらんでおり、時折響く「ドーン」という音に驚いてしまうかもしれません。

所在地  下関市みもすそ川町1番

 交通   JR下関駅からバス12分「みもすそ川」下車すぐ

 問い合わせ 下関市観光振興課 083-231-1350




 

梅雨の火の山

梅雨の火の山から望む関門海峡は雲がかっています。

梅雨といえばあじさい。火の山の道中にきれいに咲いていました。




雨のあとの木々はいっそう青々としていて、パワーをもらえそうです。

霧の中を進むロープウェイは、いつもと違った景色を見せてくれるかもしれません。




ドリームシップ

 関門海峡のシンボルである「海峡ゆめタワー」に近接し、中央図書館、生涯学習施設機能を有する市民の文化活動の拠点となります。音響性能の優れた多目的に活用できるホールや、式典等に活用できるホールを備えています。


利便性と避難の安全性を考慮して、ホールを低層配置とし、また静寂性を確保するため、図書館を上層階へ配置しています。エントランスを中心に低層部がつくり出す都市の縁側空間、また外壁にガラスを多用することにより、沿道の自然景観の共有、さらに屋内外での活動がわかりやすい施設となります。また施設屋外の省エネルギーによる環境負荷低減の工夫を盛り込み、市民の環境への意識を高め、皆で育てていく施設づくりを行います。

 

 外観デザインは、沿道や臨海の豊かな自然環境にとけ込むように白いタイルとガラス壁面で構成し、関門海峡を進む客船をモチーフとしています。また、建物の基本高さを抑えて、街区のスカイラインを揃え、まちの景観にとけ込んでいます。さらに海や空の青さを軽やかにつなげていく水平ラインや、機能別に多様な表情を持たせた壁面により、メインファサードをつくり出します。




 インテリアデザインは、異なるそれぞれの用途に応じて個性を持たせ、利用者の楽しみと機能の分かりやすさに配慮した計画を行っています。また、素材や色彩、はっきりと見やすいデザインを備え、動線のわかりやすさも追求しています。さらに点状ブロックや平滑な床仕上を採用することにより、視覚障害者や車椅子利用者にもやさしいデザインになっています。

 

 

 

 所在地  下関市細江町3-1-1 下関市生涯学習プラザ

 交通   JR下関駅より徒歩約15分

       バス「細江町バス停」下車徒歩約5分

       中国自動車道「下関IC」より車で約15分

 問い合わせ 株式会社ドリームシップ (083)231-1234

 




サイ上り神事

 彦島八幡宮の秋季例大祭の中で行われる神事。彦島開拓の祖といわれる河野通次(こうのみちつぐ)が海中から御神体を引き揚げ、八幡宮としてまつり始めた故事に由来します。神事は境内舞台上で行われ、まず、羽織・袴姿の子どもたちが、トビウオが海面を跳ねる姿をあらわす舞を踊り、続いて鎧・兜に身を固めた武者が、海中から御神体を見つけて引き揚げる舞を披露します。

 河野通次(こうのみちつぐ)は、伊豫水軍の祖越智高縄城主河野通清の末裔で、伊豫の国(愛媛県)勝山城主でしたが、保元元年(1156)保元の乱に藤原頼長と共に崇徳上皇と結び、天皇方と戦い白河殿の夜襲に惨敗(ざんぱい)して、通次は残党の園田一覚、二見右京、小川甚六、片山藤蔵、柴崎甚平を率いて西奔、追っ手をさけながら、比の彦島におちのびてきました。

農夫漁夫を装い再起を謀って居りましたが、朝に興り夕に亡びる武士の生活に無常を感じとうとう望みを捨て、彦島に永住する決心を固めました。




 

 

 それから二十有余年後、植田治郎、岡野将監、百合野(ゆりの)民部、和田義信、登根(とね)金吾、富田(とみた)刑部が来島して住むようになり彦島開拓の祖となりました。

これを「彦島十二苗祖(びょうそ)」と云っております。

 

 

 保元二年(1157)十月のある日いつもの如く沖に出て漁をしていますと、一天俄にかき曇り里(今の迫町)から西南にあたる海上に紫色の雲がたなびき、その下あたりの海中より黄金色の如く光輝く物があるのを見て、通次等は不思議な思いで網を打って引き揚げると、それは一台の明鏡でありました。しかも鏡の裏には八幡尊像が刻まれていたのです。

 

通次等は大いに喜び、之は我ら一族の護り本尊であると、海辺の一小島の榊に一旦鏡を移し、その後祠を造営して鏡を納め光格殿と命名しました。

これが当八幡宮の発祥であります。

 

 又舊記に海底より光り輝く物があり、河野一族等鉾にて之を突きし八幡尊像の左眼がささりて賜りたり云々とありますが何れが真か確証しがたい。

 

 永暦元年(1160)十月十五日、先に小川甚六・柴崎甚平に命じて森の楠で刻ませた八幡尊像を光格殿に奉納し、通次は甲胄(かっちゅう)を着して弓を取り、郎党(ろうだう)、家人(かじん)に榊を持たせ社前に拝し、武運長久と一族の繁栄を祈りて後、大いに舞い踊り、我等が守り本尊「サァ揚らせ給う」と大声にてとなえたと云い、

故にこの一小島を舞子島と云うようになり、これがサイ上リ神事の始まりとなりました。




 

 正平四年(1349)二月三日夜、河野通次四代の孫・道久の代に八幡大神の御託宣(ごたくせん)がありました。

即ち「里より四丁、酉の方に平地あり、是れ我れが鎮座の地なり」と。

道久恐懼(きょうく)して直ちにこの平地を開き社殿を造営して、同年五月下旬竣工遷宮(せんぐう)の式を行い、社地名を宮ノ原と称しました。

これが現鎮座地であります。

 

「サイ上り」とは、通次が「さあ上がらせ給う」と大声にてとなえたと云う故事をそのまま伝えるものといわれます。

 

 

口碑伝説による

 

 所在地  下関市彦島迫町5丁目12-9

 交通JR下関駅からバス14分「東圧正門前」下車、徒歩3分

      下関 I.Cから車14分

 問い合わせ 彦島八幡宮 083-266-0700




大賀ハス(土井ヶ浜弥生パーク)

 昭和26年(1951)3月3日から4月6日の34日間、千葉県検見川の東京大学農学部厚生農場内の泥炭層を掘り下げ、3月30日に第一番目の古蓮実一粒、4月6日に二粒の実が発掘されました。

 

 昭和26年(1951)5月に大賀博士宅(東京都府中市、現在は無い)で発芽処理、6月に千葉県農業試験所(現県農林総合研究センター)に移され、そのうち一株が生長しました。

 

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 翌昭和27年(1952)4月に三個の蓮根が収穫され、東大園芸試験所(現 東大大学院農学生命研究科附属緑地実験所)、千葉市弁天池に分根、東大の蓮根は、地元の伊原茂氏に栽培委託されました。

 

 昭和27年(1952)7月18日に二千年前の一粒のハスの実が発芽、生長し、淡い紅色の大型一重(ひとえ)の花が咲き、世界の人々が感動されました。

 




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 はじめ、「古代蓮」といわれ、後に、「二千年蓮(別名:大賀バス)」、昭和29年(1954)に千葉県の天然記念物として「検見川の大賀蓮」に指定され、今は千葉県の天然記念物として「検見川の大賀蓮」、略して「大賀蓮」、通称「大賀ハス」と呼ばれています。 

 

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 大賀ハスは、ひとつぶの古蓮実が、三個の蓮根となり、その後、実や蓮根により、国内外150箇所以上に移植され育てられて、人々は、この花が咲く季節(例年の開花は6月中旬より)を楽しみにしています。

 

 所在地  下関市豊北町神田上891-8

 交通   JR山陰本線 長門二見駅からバス15分「土井ヶ浜」下車、徒歩3分

      下関 I.Cから車で63分

 問い合わせ 土井ヶ浜遺跡・人類学ミュージアム 083-788-1841

附野薬師と俵石

海士ヶ瀬を眼下に見る丘に建つ。

海士ヶ瀬で難破された弘法大師が航海安全を祈願して建立したと伝えられ、本尊は薬師如来、脇侍仏(きょうじぶつ)は日光・月光の両菩薩を安置して、いずれも弘法大師作という。

 俗間(ぞっかん)では昔から「御薬師」と呼んで航海の安全の他、眼病治癒、安産などの霊仏(霊験 (れいげん) あらたかな仏。)として広く信仰を集めています。

平成4年(1992)に附野海岸に漂着した木彫りの十一面観音像も納められています。往古は豊田村華山の末寺でした。

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境内の「附野薬師如来の由来」には次のように記されています。

 

當山に安置し奉る本尊薬師如来は、弘法大師一刀三礼(いっとうさんらい)の御作仏にして延暦二十三年(804)御入唐の砌(みぎり)、船中に於て御彫刻あらせられし尊像なり。

 大同元年(806)御帰朝の節供奉(ぐぶ)され、その後御化益(けやく)の為め北国へ御巡錫(じゅんしゃく)の折柄当地の沖海士ヶ瀬御通船の時、暴風俄に起り、逆浪(げきろう)して御船も既に危き處に、不思議に薬師如来の示現(じげん)を蒙り(こうむり)給い程なく当地の濱辺に着船ましましたり。(依って郷名を附野と申す。)

 御自作の尊像を供奉(ぐぶ)し給いて、当地へ上らせ給う。

 

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当郷久太郎宅(今の俵屋是なり)に訪い(おとない)寄り給い、暫く錫(しゃく)を止め庭前の石上に尊像を御鎮座ありて、主久太郎を霊前に招き給い、大師仰せられけるは、此所尊像有縁(うえん)の地なるとて霊地を求め給うに、此山正しく尊慮(そんりょ)に叶う霊場(れいじょう)なれば、此処に止め置くべしとて忝けなくも久太郎へ御附属(ふしょく)ありて大師は月山の霊場へ越へさせ給う。

 その後此処へ一宇を建立(回春山東福寺)して久太郎尊敬浅からず多年御守護をなし、累代(るいだい)に及べり。

 それより数百年の星霜(せいそう)を経て、同姓の中祖久太郎一子久市へ、霊夢に告げて曰く(承應二年(1653)四月朔日の夜)汝等へ眼病治癒(ちゆ)の灸(きゅう)を授くべし、とて十一穴を指揮(しき)ましまし永世(えいせい)諸人へ施す(ほどこす)べし、とありありと御示現(じげん)を蒙り、爾来(じらい)相伝(そうでん)して、諸人の病苦を救はしむること、萬人の知るところなり。

 

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 大悲、素より十二の誓願ましまし、諸病悉除(しつじょ)慈恩(じおん)一切衆生誰か其の利益を蒙らざらん仰ぐべし信ずべし、諸人結縁(けちえん)の為め茲に御薬師の縁起由来を記す。

     天明四年(1784)辰八月   回春山東福寺

                      快音謹白

 (註)昭和十七年(1942)寺号を東山寺と改む。

 毎年五月八日が縁日ですが、七年に一回御作仏の開扉が行われ、厄払いの流葬、流れ潅頂の儀式(施儀鬼の搭姿回向)が行われるのもこの時です。

昭和三十五年(1960)がそのあたり年でした。

 御守護をなす当、来見田家庭園を「観涛園(かんとうえん)」と称し、この庭に有名な俵石(玄武岩層の露頭なり)があり、この石の名から「俵屋」なる屋号がうまれました。

「観涛園(かんとうえん)」入口の解説掲示板には次のように記されています。

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「観涛園の俵石(かんとうえんのたわらいし)」

  昭和六十年(1985)二月十八日下関市指定文化財に指定されています。

 このあたかも俵を積み上げたように見える石は「俵石」と呼ばれている。

これは、自然のまま庭石としているので、その景観がすぐれているだけでなく、柱状節理には珍しく横に現われていることから地質学の資料としても価値が高い。

 松蔭先生は、北浦巡歴の際、ここに立ち寄られて、

 「播き尽きぬ宝の種や俵石」

 と讃えられました。

また、庭の所有者である来見田(くるみだ)家は、観涛園(かんとうえん)と呼ばれ、昔は俵屋(たわらや)という庄屋であった。附野薬師東山寺(つくのやくしとうざんじ)とのつながりが深く御本尊厨子の鍵を預かる旧家である。

下関市教育委員会

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 この庭は、明治維新の先覚者吉田松陰先生が、藩命を奉じて大津豊浦両郡及び赤間関海岸の防備を視察したときこの地に来られ、「廻浦紀略」の当該日には次のように記されています。

嘉永二年(1849)七月十二日

 雨すでに晴れたれども、風波未だ恬(やすら)かならず、故に尚宿に在り。

 午後一僕(ぼく)を率い附く野に至り、庄屋次郎兵衛が宅に過ぎり俵石を視、島戸浦に至る。

大河と云う處臺場宜し(よろし)。浦、戸数二百軒。

 阿川に至り日和山の臺場に登り、本浦東西及び今浦山の臺馬を遠見(えんけん)す。時に船は尚阿川に在り、船に上り要用(ようよう)の諸具を携へ、苅東山を越えて市中の宿所に帰る。

市中より阿川へ行くの里程、島戸へ廻れば二里、苅東坂を越せば一里、山路と雖平坦にして騎して走るべし。

 晩に向はんとして浦究(うらぎわめ)大田要蔵を訪(おとな)う、談話久しく夜に入りて帰る。

肥中湊の内ヶ輪、畔頭(くろがしら)平兵衛組、三右衛門の抱え地、城山烟硝倉に宜し(よろし)。

禮 明  

参考文献

松陰先生遺著 第2巻 廻浦紀略, 吉田庫三編(東京:民友社,明41,42 )

 所在地  下関市豊北町神田附野

 交通   JR山陰本線 特牛駅からバス13分「薬師寺」下車、徒歩2分

      下関 I.Cから車で72分

 問い合わせ 附野薬師東山寺 083-786-0243

 

お亀銀杏(亀山八幡宮)

「イチョウ」の大木を背にして、昔は島であった亀山八幡宮の一帯を埋め立てるときに、人柱となった遊女 「お亀」を祀った小さな祠(お亀大明神)があり、池には多くの亀が飼われています。

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 神社地は古くは島でしたが、江戸時代の始め頃、街の発展のために陸続きにする埋め立て工事が、毛利藩によっておこされまりました。

しかし海峡の潮の流れは速く、ひと岩沈めればひと岩を流す急流であり、工事は多大の工費と、人の命を犠牲にするのみで一向に進みませんでした。

 

町では「これはきっと神様のお怒りに触れたためだだ」と噂が広まり、とうとう困った役人は人柱を立てることを決め、さっそく海峡の流れを鎮めるため、「人身御供(ひとみごくう )としての人柱募集の高札」を立てました。

 当時、この辺りには、稲荷町(現・赤間町。当時江戸の吉原・京の島原につぐ三大遊廓の一つ)の「お亀」という疱瘡を病み顔に「アバタ」のある遊女がいました。

 

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町かどに立った人柱募集の高札を見て「お亀」は、このまま生きて身を汚すより、「こんな私でも町の人たちのお役に立つなら ば」と決心して申し出ました。

 

月明かりの夜です。「お亀」は白衣に身をつつみ、合掌して一歩一歩どす黒い海へ消えていくその姿は、仏様を思わせる気高さがあって人々は、その後姿にいつまでも念仏を唱え続けました。

「 お亀」が人柱となって海底に消えた翌日から、人々は急いで準備にとりかかり「お亀」の尊い犠牲を無にするなと急ピッチで工事を進め埋めたて工事は速い潮に悩まされる事もなく、見る見るうちに完成したと言います。

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 人々は「お亀」の功績をたたえ、亀山八幡宮にイチョウの木を植えて「お亀イチョウ」と名づけました。

生長して毎年秋に無数の実を結ぶイチョウには、何故かたくさんの斑点があり、「お亀」さんの顔の「アバタ」が残ったものと伝えられ「お亀ギンナン」と呼ばれていました。

この実は明治の頃に天然痘が流行した時は、多くの人に疫病除けのお守りとして求められたということです。

『お亀イチョウ」は昭和20年(1945)の空襲により、焼失しましたが、「お亀」さんの遺志を継ぐかのように焼け残った株から新しい芽 が出て、今では何事も無かったかのように豊かに生い茂っています。その名残である古株の跡は、今も残されています。

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「お亀イチョウ」は、秋にはたくさんの実を落し、不思議にも「お亀」さんの「アバタ」のような無数の斑点があることから、「お亀ギンナン」と呼ばれ、明治の頃には、疱瘡除けのお守りとし、今では無病息災、延命長寿のご利益があるとして、境内で売られています。

 

 神社では5月に五穀豊穣を祈る五穀祭が行われます。その時に氏子中では、「八丁浜エラヤッチャ」と合いの手を入れながら、八丁浜の囃しに合わせ杓文字を叩きシャギリ踊る、八丁浜(ハッチャハマ。八丁浜踊り、八丁浜シャギリともいう)が行われます。

いつしか博多にお株を奪われてしまいましたが、杓文字を打ち鳴らしがら「ぼんち可愛いやねんねしな」と唄って踊る踊りは、この下関が発祥の地と言われています。

「八丁浜」とは「お亀」さんの犠牲によって埋め立てられた浜地の広いことを言い、「エラヤッチャ」とは、「お亀」さんは立派な奴だの意味です。

 江戸時代、毛利藩は派手な歌舞音曲や酒宴などを禁じていましたが、八丁浜の期間中は各所に「賑わい勝手」の高札が立てられどんなに騒いでも咎められることはありませんでした。

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「八丁浜総踊り」に先立ち、「お亀明神」前で「お亀明神顕彰祭」が行われています。

戦後この行事は衰退しましたが、昭和60年(1985)市民祭として開催されることになり、現在しものせき海峡まつりにあわせ賑やかに復活し継承されています。

 

 

 所在地  下関市中之町1-1

 交通   JR下関駅からバス7分「唐戸」下車、徒歩5分

 問い合わせ 亀山八幡宮 083-231-1323