境内左側に、元治元(1864)年8月の下関戦争で、戦死した11人の名を刻んだ戦士の塚や、慶応2年(1866)の小倉戦争で、上半身裸のまま自分の小隊を率いて敵の砲台に突撃し、戦死した山田鵬輔はじめ奇兵隊士の墓があります。
所在地 下関市赤間町3-12
交通 JR下関駅からバス7分「唐戸」下車、徒歩約4分
問い合わせ 本行寺 083-222-2406
関門の名所やお祭りなどを映像と写真で紹介しています。
境内左側に、元治元(1864)年8月の下関戦争で、戦死した11人の名を刻んだ戦士の塚や、慶応2年(1866)の小倉戦争で、上半身裸のまま自分の小隊を率いて敵の砲台に突撃し、戦死した山田鵬輔はじめ奇兵隊士の墓があります。
所在地 下関市赤間町3-12
交通 JR下関駅からバス7分「唐戸」下車、徒歩約4分
問い合わせ 本行寺 083-222-2406
昭和20年代まで稲荷町と呼ばれたこの地の町名は、大同4年(809)の創建と伝えられる稲荷神社に由来するもので、北前船の寄港で賑わった江戸時代には、平家生き残りの官女らとの血縁が語られる遊女に端を発した、格式の高い花街として広くその名を知られた裏町がありました。
最盛時には、大坂屋を中心とした花魁芝居や先帝祭の上臈参拝行事の起源の地としても知られ、また幕末維新の頃には高杉晋作、伊藤博文ら若き志士たちもこの界隈を往来していたそうです。
現在街並みは変わり、わずかに稲荷神社が往時を偲ばせてくれます。
所在地 下関市赤間町5番
交通 JR下関駅からバス7分「唐戸」下車、徒歩約7分
問い合わせ 下関市観光振興課 083-231-1350
林芙美子は明治36年(1903)に、田中町の五穀神社入口にあったブリキ屋の2階で生まれたと言われており、この神社の鳥居横には「林芙美子生誕地之碑」が立っています。
出世作『放浪記』で「私が生まれたのは下関の町である」と記した林芙美子。
第一学年から第四学年まで在籍していた名池小学校の資料室には、彼女の学籍簿が展示されています。
昭和26年(1951)心臓まひで急逝しました。
所在地 下関市田中町1番五穀神社入口付近
交通 JR下関駅からバス8分「西之端」下車、徒歩約3分
問い合わせ 下関市観光振興課 083-231-1350
明治36年(1903)山口県長門市で生まれた童謡詩人金子みすゞは、大正12年(1923)20歳の時故郷の長門市から下関の上山文英堂本店に移り住み、西之端町にあった商品館の上山文英堂という書店で働きなら、童謡詩の創作活動を行い、文学雑誌に次々と作品を発表しました。
唐戸界隈に点在するみすゞゆかりの場所には詩碑が設置され、みすゞの世界に想いを馳せながら散策を楽しめる「金子みすゞ詩の小径」となっています。
所在地 下関市南部町7番
交通 JR下関駅からバス7分「唐戸」下車、徒歩約4分
問い合わせ 下関市観光振興課 083-231-1350
永福寺の言い伝えによれば、推古天皇の十九年(62)に百済の聖明王の王子琳聖太子が來朝された際、ここに一宇を建て念持仏観音像を安置したことに始まると言われています。
初めは天台宗でしたが、のち衰微して荒れるにまかせていたのを嘉暦二年(1327)に規模を拡大し、鎌倉の人で南禅寺三世平田慈均禅師が、ここに住みつき永福寺の開山となり臨済宗の道場に改めました。
江戸時代には、下町がますます繁栄して行くと同時に、大年寄佐甲家の保護もあり寺運はいよいよ開けて行きました。
大正六年に町中(現在の山口銀行旧本店付近)から背後の現在の高台へ移転しましたが、昭和二十年(1945)七月の戦災で、室町時代の初期に属すると伝えられ、鎌倉の円覚寺舎利殿と同じ唐様建築として、国宝に指定されていた観音堂ほか諸堂ことごとく焼失しました。
永福寺は毎年7月17日の「十七夜の観音」(千手観音)ご開帳の夜に幽霊の絵を公開する「幽霊祭」で有名です。
所在地 下関市観音崎町8-2
交通 JR下関駅からバス4分「三百目」下車、徒歩7分
問い合わせ 永福寺 083-223-5841
国道9号と関門海峡に挟まれた小さな緑地に大きな錨のモニュメントがあり、モニュメント越しに見る船や海峡は、なかなかの風情があります。
このあたりの海岸は旅客船用の岸壁のため、係船柱などもも景観を意識してつくられていますので、夜景もとても綺麗です。
所在地 下関市あるかぽーと3番
交通 JR下関駅からバス4分「三百目」下車、徒歩約3分
問い合わせ 下関市観光振興課 083-231-1350