「山陰海岸・新下関・内日周辺」カテゴリーアーカイブ

勝山御殿跡

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文久3年(1863)5月10日攘夷決行が決まり、関門海峡で外国船との間に戦いが始まると、長府藩主毛利元周は、海岸に近く危険な櫛崎城の藩邸を離れ、田倉の旧内藤氏の居城の南に新殿をつくることにしました。

 1863年(文久3年)7月25日長府藩の新殿の工事がはじまり、藩士、村民の奉仕によってわずか7ヵ月で完成させると、元治元年(1864)2月1日に藩主以下中心となる者がこの館に移りました。

 明治になって、長府藩が豊浦藩となり、藩主が豊浦藩知事となってそのまま役所として使われ、廃藩置県で山口県誕生とともにに、その役割を終え、毛利氏の私財として取り壊し処分されました。

 今も残る上下二段の見事な石垣は、御座の間、大書院室、御寝所など六十余りの部屋を持つ、壮大な御殿があったことを偲ばせる威容を残しています。

 建物 の一部は了円寺、覚苑寺などに移設されています。

 

 所在地  下関市田倉御殿町

 交通   JR新下関駅から長安線バス7分「御殿町」下車、徒歩14分

      下関 I.Cから車で11分

 問い合わせ 下関市観光振興課 083-231-1350

 

住吉神社

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日本書紀によれば、新羅から凱旋した神功皇后が住吉三神を祀ったとされ、「長門一の宮」として古くから知られる神社です。

 全国でも珍しい九間社流造(くげんしゃながれづくり)の本殿は、応安3年(1370)に大内弘世が造営したもので、室町時代初期の面影をよく保っていることから国宝に指定されています。

 

 檜皮葺きの拝殿は天文8年(1539)に毛利元就が寄進したもので、こちらも国指定重要文化財に指定されています。

 銅鐘、金銅牡丹唐草透唐鞍など、数々の重要文化財も、歴史と社格をしのばせます。

 

 旧暦元旦の「和布刈(めかり)祭」、5月の「お田植祭」、12月の「河渡(かわたり)祭」等が行われます。

 所在地  下関市一の宮住吉1-11-1

 交通   JR新下関駅からバス3分「一の宮」下車、徒歩6分

 問い合わせ 住吉神社 083-256-2656

 

秋根古墳

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6世紀中頃の円形墳と推定されている1号墳は、秋根記念公園内の秋根八幡宮裏にあり、明治20年(1877)頃、社殿を改修するときに発見されたものです。2号墳はその南約100mの位置にありました。

 古墳からは、勾玉などの装身具の他、太刀などの武具や馬具などが出土しています。

 現在、1号墳はそのままの場所(秋根記念公園内)、2号墳は、すぐその西側の位置に調査時(昭和50年)前の姿で移築されています。

 秋根八幡宮は、本殿の建造年代より江戸時代の前期以前の創祀であると考えられています。

 

 所在地  下関市秋根西町一丁目

 交通   JR新下関駅から徒歩6分

 問い合わせ 市観光振興課 083-231-1350

普賢寺

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慶長6年(1601)、下関市秋根で亡くなった毛利元就の継室、乃美大方(長府藩祖・毛利秀元の祖母)の菩提寺です。

 乃美大方は、毛利元就が正室妙玖を亡くした後、小早川家臣乃美氏から元就の継室として嫁ぎ、四男元清、七男元政、九男秀包をもうけていますが、そのうち元清は、長府藩祖毛利秀元の父にあたります。

 大方の墓所は長府の功山寺にありますが、道路で隔てられた東側墓地には灰塚があります。

 

 所在地  下関市秋根本町 1-2-8

 交通   JR新下関駅から徒歩7分

 問い合わせ 普賢寺 083-256-2900

 

ヘルシーランド下関

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下関市環境センター奥山工場で発生するごみ焼却余熱を利用して、年間を通じて利用できる温水プール(50メ−トルプール、25メートルプール、幼児用プール)、普通湯・寝湯・薬湯・露天風呂・サウナまで備えた大浴場やふれあいホール、健康増進室、レストラン等がそろっています。

 屋外施設としてゲートボール場、テニスコートなどもあります。

 

 所在地  下関市大字井田、大字小野

 交通   JR新下関駅からバス16分「ヘルシーランド下関」下車、すぐ

 問い合わせ ヘルシーランド下関 083-256-6926

 

内日水道水源池

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 下関市の水源地のひとつで、取水塔など、明治末期から昭和初期にかけて造られた上水道施設がいまでも稼働しています。

 下関では、明治24年(1891)に議会の承認を受けて上水道の建設調査に取りかかりました。

 内務省の技師でイギリス人のウイリアム・K・バルトンは調査の結果、上水道の水源地として当時の豊浦郡内日村の一ノ瀬が最適地であると報告しましたが、その後、日清戦争の影響などで、明治34年(1901)にようやく着工され、4年間をかけた貯水池工事と家庭配水工事を完了し、明治39年(1906)1月1日に待望の給水を開始しました。

 時代と共に、その都市規模を拡大するに従い、水需要も多様化し増加したため、内日貯水池からさらに500mほど上流に第二貯水池を築造することとなり、大正14年(1925)に着工、昭和4年(1929)に完成しました。

 

 所在地  下関市内日町

 交通   JR新下関駅からバス20分「一之瀬」下車、すぐ

 問い合わせ下関 市観光振興課 083-231-1350

中山神社・愛新覚羅社:歴史と文化が息づく聖地

下関市綾羅木本町にある中山神社・愛新覚羅社は、幕末の風雲児・中山忠光と、清朝最後の皇帝溥儀の弟・愛新覚羅溥傑夫妻を祀る神社です。歴史と文化が息づくこの聖地は、訪れる者に深い感動を与えてくれます。

中山神社

中山神社は、明治維新の先駆者として活躍した中山忠光を祭神とする神社です。忠光は、明治天皇の叔父であり、公卿として活躍しながらも、尊王攘夷運動に身を投じました。

しかし、元治元年(1864年)、長州藩の俗論党によって暗殺されてしまいます。

中山神社は、忠光の遺志を継ぎ、明治維新の精神を後世に伝えるために建立されました。

愛新覚羅社

愛新覚羅社は、中山神社境内に建立された神社で、清朝最後の皇帝溥儀の弟・愛新覚羅溥傑と、その妻で中山忠光の曾孫である浩、そして二人の長女・慧生を祀っています。

愛新覚羅社は、日中両国の歴史と文化を繋ぐ貴重な存在です。

アクセス情報

  • 所在地:下関市綾羅木本町7-10-8
  • 交通:
    • JR山陰本線 綾羅木駅から徒歩12分
    • JR下関駅からバス31分「綾羅木中山神社前」下車、すぐ
    • 下関ICから車で25分
  • 問い合わせ:中山神社 083-253-0704

中山神社・愛新覚羅社を訪れる

中山神社・愛新覚羅社は、歴史と文化、そして自然が融合した美しい場所です。

境内を散策すれば、幕末の志士たちの熱き思いや、日中両国の複雑な歴史を感じることができるでしょう。

ぜひ、中山神社・愛新覚羅社を訪れて、歴史の深さに触れてみてはいかがでしょうか。

下関市立考古博物館

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 西日本屈指の弥生遺跡として知られる綾羅木郷遺跡に隣接し、弥生時代にこの地で始まった農耕文化や土器・石器の展示をはじめ、竪穴式住居の再現など、古代の状況がわかる仕組みになっています。

 中国や朝鮮半島との交流を示す資料なども分かりやすく展示しています。

 博物館そばには前方後円墳の若宮古墳や岩谷古墳もあり、社会科見学のスポットとしても利用されています。

 

 所在地  下関市大字綾羅木字岡

 交通   JR山陰本線 梶栗郷台地駅から徒歩5分

      下関 I.Cから車で9分

 問い合わせ 下関市立考古博物館? 083-254-3061

 

綾羅木郷遺跡

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 綾羅木郷遺跡は、平野の中心に広がる丘稜の全面が 弥生時代の遺跡です。

 発掘調査によって、台地の東部地域には竪穴住居跡や埋葬遺構が発見され、台地の中央部から西側は弥生時代前期に特徴的にみられる、多数の袋状竪穴群や弥生時代中・後期の溝などが発見されています。

 

 古墳時代(ほぼ3世紀末から7世紀)の住所跡も存在しています。台地の西北の端には箱式石棺を主体とする、前方部が低く平らな前方後円墳もあります。

 遺物として、弥生時代前期前半の土器や多くの石器などが発見されています。

 

 所在地  下関市大字綾羅木字岡

 交通   JR山陰本線 梶栗郷台地駅から徒歩3分

 問い合わせ 下関市立考古博物館 083-254-3061

 

梶栗浜遺跡

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大正2年(1913)長州鉄道(現在のJR西日本旅客鉄道)が鉄道敷設工事の際に箱式石棺が出土しました。

 発掘調査によって、ここから多鈕細文鏡や細形銅剣、土器などが出土しましたが、そのうちの青銅器は、我が国の遺跡から発見された例が少ない、朝鮮古代のものであることがわかりました。

 この遺跡は、発掘された石棺の外に据えられた弥生土器の年代から、弥生時代前期末の墓地とみられていましたが、その後の学術調査によって、これら石棺の北側に弥生時代中期の土器をもつ墓が発見されて、この遺跡は南から北に向かって、墓地が順次広がっていったものであることがわっています。

 

 所在地  下関市梶栗町4丁目

 交通   JR山陰本線 梶栗郷台地駅から徒歩5分

 問い合わせ 市観光振興課 083-231-1350