下関、門司地域のインターネット放送局 関門テレビ
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ミュージカル維新奇兵隊

西暦1864年8月5日、突然海峡に姿を現した17隻のイギリス・アメリカ・オランダ・フランスの四カ国連合艦隊は288門という圧倒的な数の大砲を一斉に下関に向けて放った。


後に、下関戦争と呼ばれるこの戦いの収拾役を任されたのが、当時「東行」と号して萩の地に実居していた高杉晋作であった。

文久3年、西暦1863年6月、「東行」と号して萩の地に実居していた高杉晋作は、藩主毛利敬親に召しだされアメリカ軍艦「ワイオミング号」の報復により多大な被害を被った事態の収拾を命じられたが、胸中決するところをもって下関に飛んだ高杉は、豪商白石正一郎邸に入るや直ちに武士・町民・百姓を問わず、進んで国事に身を投じようとする者全ての入隊を許可するという、従来の封建的な身分区別にこだわらない力量中心の有志隊、奇兵隊を結成した。

大雪に見舞われた12月15日の夜、下関市長府功山寺にて三條 實美(さんじょう さねとみ)に面会した高杉は、「長州男児の肝っ玉をお目にかけます」と挨拶するや、伊藤博文や前原一誠、その他山門前に勢揃いした約80名の兵とともに、ついに決起。

戦国における近代的な軍事組織の原型ともいえる奇兵隊は、吉田松陰の求めた草莽崛起(そうもうくっき)の思想の延長線上にあり、ここ下関から近代日本への胎動が生まれ、やがてそれは時代を明治維新へと大きく動かす原動力となっていったのである。


時代は滔々と流れていく。
820年前のあの悲運の出来事も
大陸へと夢を馳せた若き情熱も
関門の潮はそれらを全て見てきた。
悠久二千有余年の昔から知られる下関
この地こそ我が故郷



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