重要文化財(旧国宝)厚母大仏

下関市豊浦町厚母安養寺に安置されている大仏は旧国宝であって、右手は手の平を前にして屈し胸、左手は手の平を上にしてひざにおき、両手とも第一指と第二指の先を接して「上品下生(じょうぼんげしょう)」という印を結んでいる木造阿弥陀如来坐像です。
像の高さは八尺八寸八分(296.1センチメートル)の丈六仏(じょうろくぶつ)です。丈六の仏像とは、一丈六尺の仏像のこと、坐像の場合はその半分八尺の仏像です。

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この大仏は由縁(ゆえん)において詳細を欠くが、伝えるところによると聖武天皇の天平十三年(741)に国状不安を鎮撫(ちんぶ)するために、国毎に国分寺(こくぶんじ)とともに、国分尼寺(こくぶんにじ、こくぶにじ)が建立された。

正式名称は国分寺が金光明四天王護国之寺(こんこうみょうしてんのうごこくのてら)、国分尼寺が法華滅罪之寺(ほっけめつざいのてら)であった。

 長門は、古くは穴門(あなと)と呼ばれ、穴戸と書くこともあった。

穴門とは海峡 (関門海峡)を指しており、日本神話にも「穴戸神」の名が見える。

穴門国造(くにのみやつこ)の領域と、阿武国造(くにのみやつこ)の領域をあわせて、7世紀に穴戸国が設置され、7世紀後半に長門国に改称した。

 国府は豊浦郡にあって、現在の下関市長府宮ノ内町の忌宮神社の近辺と推定されるが、遺跡はまだ見つかっていない。

国分寺は、長門の国府(長府)のそばに置かれ、国庁とともにその国の最大の建築物であったものとおもわれる。

 

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この国分寺境内には四十九院の寺々があって、「国分寺古跡由来書」によると、その中で安養寺及び極楽寺を以て長門国中の諸末寺に主君・官府などの裁定。指図。指示。また、それを伝えた。

「豊府志略」の国分寺の条に境内西方の安養寺を以て奥の院とす。とあるから国分尼寺の奥の院であった。

国分尼寺は光明皇后の発願によって創建されたものであるが、その後律令体制が弛緩(しかん)し、官による財政支持がなくなると、衰頽(すいたい)して廃寺となった。

 長府功山寺の開基基智門寺殿功山玄誉大居士(法名)が安養寺の寺号を厚母に遷(うつ)し小刹(さつ)を再建された。

(慶安三年 (1650)十月三日毛利秀元死亡 法号「智門寺殿功山玄誉大居士」以後世々毛利家の香華寺となり、功山寺と改称。)

 

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 この大仏は、国分寺の奥の院、安養寺の本尊であったが廃絶したため吉母の東向坊(安養寺の末寺)に遷(うつ)され、そのあと東向坊も廃絶して、一時露座(ろざ)仏となっていた。

 この大仏は本那六大仏の一つであって坂上田村麿の祈念(胎内背に田村将軍祷念佛の墨書銘文あり。)であり、名匠春日の作と伝えている。

坂上田村麻呂 (従四位下)は、延暦十五年(796)十月二十七日鎮守将軍を兼ねているから、国家鎮護のために要衝(ようしょう)の地に大刹(さつ)を選び大仏を安置したものであろう。

 その後蒙古が頻りに長門の海辺を窺うにあたり鎌倉幕府は北浦海岸の防備を固めると共に国分寺内四十九院の寺々で外敵降伏国土安穏の祈祷が行われた。

その当時までは安養寺は長府の国分寺境内奥の院であったものである。

東向坊に遷(うつ)された年代は不明である。

 昭和四年(1929)四月官報発表文部省告示第一七九号を以て国宝に指定され、

同十年(1935)四月に修理が行われた。

 

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境内地の解説掲示を記す

国指定重要文化財

厚母大仏(木造阿弥陀如来坐像)

昭和二十五年(1950)八月二十五日指定

    豊浦町厚母郷 宗教法人 安養寺 所蔵

 厚母大仏は、昭和四年(1929)に文部省告示で国宝に指定され、昭和二十五年(1950)、文化財保護法の施行により重要文化財に指定された。

  像高八尺八寸八分(296.1センチ)のいわゆる丈六仏(丈六、半丈六の仏像とは、各一丈六尺又は八尺の仏像のことである 。坐像の場合はその半分即ち八尺或は四尺の仏像が夫々丈六或は半丈六である。)で、近郷では「厚母の大仏」「安養寺の黒仏」と称されている。

 内りを施した楠材の寄木造りで、現在は古色塗りを施す上品下生の印(親指と人さし指で輪を作る。右手が胸、左手ひざ。)を結ぶ通形の如来坐像である。

この特徴の一つに膝張りと膝高との関係がある。

古像ほど膝が高く、膝高を一とすれば、膝張り五であるが、時代が下がると膝高が低くなる。

木像の膝張り( 226.3cm)と膝高(41.8cm)の割合は、膝張りに対し膝が低くなっている。

これは大仏であるために下から仰ぐと、頭と膝の均合いがくずれてしまい、頭がより小さく映ることを防ぐ工夫である。

 藤原末期の造像で破損は少なく、当代有数の様式を具えた技巧は素晴らしい。

一丈に近い巨像にまとめあげて、相好堂々、大作としてこの地方に雄視するものである。

 

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大仏殿

 大仏殿は、文化庁、山口県、下関市の補助事業として新築した。

この建物は、この地域に残る土塀や土壁のある風景と一体となるように設計した。

そのため外壁には地元の土を固めた約千五百個もの版築ブロックを積み上げるという日本初の工法を採用した。

その外観はあたかもこの地域に多くある土壁の蔵を彷彿とさせている。

 

構造 鉄筋コンクリート・一部鉄骨造り平屋建て

竣工 平成十四年(2002)十月三十日

遷座 平成十五年(2003)十一月十四日

設計管理 (株)隈研吾建築都市設計事務所(東京都)

左官監督 久住章(兵庫県西宮市)

施工   (有)岡埼建設(山口県下関市)

     (有)福田左官店(山口県三隅町)

下関市教育委員会

 

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

 

 所在地  下関市豊浦町厚母郷下郷

 交通   JR山陰本線 梅ヶ峠駅からバス2分「厚母」下車、徒歩3分

      JR山陰本線 梅ヶ峠駅から徒歩15分

      下関 I.Cから車で29分

 問い合わせ 安養寺 083-772-1611