雲雀毛(ひばりげ)の名馬: 伝説と史跡が織りなす壮大な物語

下関市豊浦町川棚下小野にある「霊馬の森」は、大内義隆公の愛馬「雲雀毛」が眠る史跡です。

誕生と母馬との別れ

天文十二年(1543)春、御崎山の牧場で生まれた雲雀毛は、まだ幼い頃に母馬を失います。

母馬を求めて海を渡り、岩山をかけめぐる雲雀毛の姿は、見る者を驚嘆させました。

名馬の名声と生け捕り

その噂は防長二州の領主大内義隆公の耳に届き、家臣たちは雲雀毛を生け捕りにしようと試みます。

しかし、荒馬である雲雀毛は容易に捕らえることができず、金田三郎乗貞がその大力でようやく生け捕りに成功しました。

義隆公の愛馬として

調練された雲雀毛は、義隆公の愛馬として常にそばに仕えました。

しかし、天文二十年(1551)に陶晴賢の謀反によって山口落城が起こり、義隆公は各地に転戦することになります。

最期と霊馬の森

八ヶ浜に陣取った黒井判官為長も敗戦し、残兵は川棚ヶ原で戦い、芦山の麓で悉く討死しました。

義隆公の乗馬もこの戦いで深い傷を受け、命を落としました。

義隆公は愛馬の死を深く悲しみ、金森左近等の武将によって鬱蒼たる大樹の下に埋葬されました。

千年余の巨木と霊馬の伝説

この大樹は樹齢千年余りと言われる樟であり、大正11年(1922)に史蹟名勝天然記念物に指定されました。

この森は「霊馬の森」と呼ばれ、毎年3月28日には慰霊祭が行われています。

山頭火の句碑と史跡へのアクセス

森には山頭火の句碑も建立されており、義隆公が隠棲した岩谷ヶ浴八丈岩などの史跡も残されています。

アクセス情報

  • 所在地:下関市豊浦町川棚下小野
  • 交通:
    • JR山陰本線 川棚温泉駅からバス11分「浜井場」下車、徒歩6分
    • JR山陰本線 川棚温泉駅から車で8分
    • 小月I.Cから車で26分
  • 問い合わせ:豊浦町観光協会 083-774-1211

朝鮮通信使

 朝鮮通信使は、室町将軍からの使者と国書に対する返礼であり、永和元年(1375)に足利義満によって派遣された日本国王使に対して信(よしみ)を通わす使者として派遣されたのが始まりです。


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 15世紀半ばからしばらく途絶えて安土桃山時代に、李氏朝鮮から豊臣秀吉が朝鮮に出兵するか否かを確認するため、秀吉に向けても派遣されています。


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 その後の文禄・慶長の役によって、日朝間が国交断絶となったために中断されました。その後、対馬藩の努力によって慶長12年(1607)、江戸時代はじめての通信使が幕府に派遣され再開となりました。


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 広義の意味では、室町時代から江戸時代にかけてのもの全部を指しますが、一般に朝鮮通信使と記述する場合は狭義の意味の江戸時代のそれを指すことが多いです。


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 通信使は将軍の代替わりや世継ぎの誕生に際して、朝鮮側から祝賀使節として派遣されるようになりました。慶長12年(1607)以来、文化8年(1811)の200年余りの間に計12回の通信使が派遣されていますが、文化8年(1811)に通信使が対馬までで差し止められたのを最後に断絶しました。


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 一行の人数は、毎回300〜500人の大使節団からなりました。

その中心は、李朝朝鮮政府が選び抜いた優秀な官僚たちで、随行員には美しく着飾った小童・その芸に秀でた楽隊・画員(絵師)・武官・医師・通訳などが加わっていました。


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 通信使は釜山から海路、対馬に寄港し、それから馬関(下関)を経て瀬戸内海を航行し、大坂からは川御座船に乗り換えて淀川を遡航(そこう)し、淀よりは輿(三使)、馬(上・中官)と徒歩(下官)で行列を連ね、陸路を京都を経て江戸に向かいました。


 馬関まつり(08.08.23)カモンワーフ会場で、で朝鮮通信使行列が再現されました。


出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

 所在地  下関市唐戸町6-1

 交通   JR下関駅からバス7分「唐戸」下車、徒歩2分

 問い合わせ 下関市観光振興課 083-231-1350