数方庭祭

 祭りは、毎年八月七日から十三日まで、毎夕7時から本殿祭があり、7時30分から10時頃まで四度数方庭の神事が行われます。

 昭和五十九年(1984)十一月に山口県無形民族文化財に指定されています。


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 数方庭の由来と鬼石については、その解説掲示に次のように記されています。

 第十四代仲哀天皇は、九州の熊襲(くまそ)の叛乱を平定のためご西下、ここ穴門(長門)豊浦(長府)に仮の皇居を興されたが仲哀天皇七年(198)旧暦の七月七日に朝鮮半島の新羅(しらぎ)国の塵輪(じんりん)が、熊襲(くまそ)を煽動し豊浦宮に攻め寄せた。

 皇軍は大いに奮戦したが宮内を守護する阿部高麿、助麿の兄弟まで相次いで討ち死にしたので、天皇は大いに憤らせ給い、遂に御自ら弓矢をとって塵輪を見事に射倒された。賊軍は色を失って退散し皇軍は歓喜のあまり矛をかざし旗を振りながら塵輪の屍のまわりを踊りまわったのが数方庭(八月七日より十三日まで毎夜行われる祭)の起源と伝えられ、

塵輪の顔が鬼のようであったところからその首を埋めて覆った石を鬼石と呼んでいる。

 また、南側鳥居から境内に入った右側に、明治三十六年(1903)十月、土居の内裏の若進会の人達によって「数方庭由来の碑」が建立されており、古い時代の祭の様子をうかがい知ることが出来ます。


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 その碑文は次のように記されています。

 忌宮神社に太陰暦(旧暦)の七月七日より十三日まで、夜ごと数法庭といって身分の高きも低きも幟(のぼり)或は燈籠を出して踊り廻る式あり。

 幟は白き布か木綿かを以て造り一反を二幅(ふたの)に縫う、其の竿の先きに鳥毛(とりげ)をさし小旗と鈴を取り付ける。小旗は赤や青、黄なるもあって色定まりなし、我が家の絞を書けるものあり。

 燈籠は其の形も繪も様々にて、枝葉ある竹に掲げ短冊を付ける。


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 踊り廻る場は南の廣前とす。先づ南面の第二の石階の下なる一の鳥居の左右に寄り集う、左は金屋町右は惣社町なり。

 昔は藩より警護として目付、組頭、寺社奉行、中間頭、各属吏を率いて参り坂上の楼門に一列に並び続き、町よりは大年寄、小年寄出でて庭上に一列に並び続く。

 是に於て、幟先に進んでそれから燈籠、それから楽人と順序して石階を登る。

 楽器は横笛、大鼓、鉦にて、笛は武家役にて吹き方は左右異なり、楽人大鼓を庭上の大石の上に於て曲を始む。

 燈籠揚げたる者、幟捧げたる者一団一団にて大石を中にして、「吁々世以」と大声で言いつゝ鳴る物の音につれて踊り廻る。大鼓やめば幟捧げたるものゝみ元の処に退出し、此の式は左右各二度にして終る。

 帰るその道すがら「しあん橋」という、古式の歌いものを歌いつゝ家に帰るという。


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 一は、彼の三韓国を征し給いし時の、御出で立ちを送れる名残なりともいい、又は、彼の国を服従させて、帰り給えるを悦べる様を傳えたるなりともいう。

 大石はこれ仲哀天皇が、熊襲のつはものゝ鬼の様なるを斬りて、其頸(くび)埋めさせ給えるしるしの石なりといえり。

 里人の或いは後世に傳へんが為に石碑建てんとすれど、数法庭と言う名大変妙であって、どう思いなさると問はる。

 私が言ったことは、早くに聞ける事なり、考えてみると忌宮神社に神宮寺及び七塔頭(たっちゅう)ありし頃、七日より十六日まで念彿講営むを以て自ずからそちらに移れるにて有るべき、そちらの法楽ならば結願の日迄踊るべきである。

 ところが此の頃十三日を最後とあるは、名は異様だけれど里人の言傳ふる故事こそがよいだろうと答えしに、主悦びて書き付けてよとして所望される。

 否、これは口にのみいへる事なりとて、辞むべからねば筆をとる 。

    旗さゝげわれも踊らん若からば

    神の御庭にむかし忍びて

      明治三十六年十月 藤原棄譽志

     土居之内裏若進曾 明治三十六年十月建立


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 数方庭(すほうてい)の名前の由来を、忌宮神社に神宮寺及び七塔頭(たっちゅう)があった頃、神宮寺の僧によって営まれていた念仏祈祷会の「修法庭」から採るという説もあります。

 切籠(きりこ)の起りは、神功皇后が凱旋された時、浦の女達が油筒に火をともして、浜辺にお迎えしたのが始まりとされています。

 現在の「数方庭祭」の形が整ったのは、長府藩三代藩主毛利綱元(もうり つなもと、承応2年(1653年)、父の死去により後を継ぐ。)の頃と言われ、それまで用いられていた油筒をやめ、七夕紙をつけた笹に燈籠をつるすようになり、矛や刀にかえて、竹竿幟を持つようになったと言われています。

 以来、その形で続けられてきましたが、大正の初めの頃から、従来の小幟に代わって大幟が登場するようになったと言われ、それからは、競って大幟を出すようになり最近では、長さ30メートル、重さ百キロという幟もあると言うことです。

 鬼石の上に太鼓を据え、「スッポウディ」と言われる独特なリズムを打ち鳴らし、それに合わせてまず切籠が、次に小幟・中幟・大幟が順次登場して鬼石のまわりを回ります。

 まさに天下の奇祭の名にふさわしい祭りです。

            参考文献『下関の記念碑』山陽地区篇 下関市教育委員会/編 

 所在地  下関市長府宮ノ内町1-18

 交通   JR長府駅からバス7分「城下町長府」下車、徒歩5分

      JR下関駅からバス23分「城下町長府」下車、徒歩5分

 問い合わせ 忌宮神社 083-245-1093