「まつり・イベント」カテゴリーアーカイブ

源平船合戦海上パレード

紅白の旗や幟をたなびかせて、鎧武者が乗り込んだ80隻あまりのいくさ船が関門海峡で合戦模様を再現しパレードします。
源平の最終決戦である壇之浦の戦いを武者や官女に扮した方々が時代絵巻のごとく再現していきます。このパレードの模様は唐戸地区のボードウォークより一望できます。

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2017年 極楽寺花まつり法話コンサート「ヒビキノツヅキ」

2017年3月27日、子供から大人まで楽しみながらのご法縁、第3回花まつり法話コンサートが牧野法生師(大阪真宗寺)藤澤彰祐師(滋賀浄光寺)をお迎えして、行われました。
コンサートでは、オリジナル曲を始め、「見上げてごらん夜の星を」「365歩のマーチ」等、大人は、一緒に歌ったり、子どもたちは、子供会活動もされている藤澤先生の楽しい打楽器プチレッスンにより、いろんな楽器でリズムを取ったりと、歌と歌の間のご法話まで、心温まる笑顔笑顔の二時間でした。

願海山 極楽寺
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2017年 赤間神宮先帝祭 上臈参拝本殿

寿永四年(1185年)3月24日、平氏は本州の西端、長門壇之浦の合戦で源氏に敗れ、その短い栄華の夢を終えました。
わずか8歳の安徳幼帝が祖母二位の尼に抱かれ『波の底にも都の候ふぞ』の言葉とともに、波間におかくれになりました。
「関の先帝 小倉の祇園 雨が降らなきゃ金が降る」
といわれるこの祭は、入水された安徳幼帝をとむらうため、その命日に女臈に身を落した平家の官女達が参拝したことに始まったものです。

2017年しものせき海峡まつり特集(関門・九州TV)
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風鎮祭

9月1日、2日に川北神社で「風鎮祭」がありました。

風鎮祭は「風よけ祭」ともいわれ、風によって稲や他の作物が被害をこうむらないよう神に祈願するお祭りです。 二百十日(にひゃくとおか=新暦だと9月1日頃)は、雑節の一つで、立春から数えて210日目のことです。台風の特異日にもあたり、各地で風を鎮める祭りが行なわれます。

鉦や太鼓にあわせて、幟やキリコが舞って賑わいます。

大きな幟やきれいに飾られたキリコの舞いは、見応えがあります。

幟やキリコの舞いが終わったあとも、地元の方々で賑わっていました。

 

川北神社

所在地  下関市綾羅木559

アクセス  JR山陰本線綾羅木駅から徒歩で15分

サイ上り神事

 彦島八幡宮の秋季例大祭の中で行われる神事。彦島開拓の祖といわれる河野通次(こうのみちつぐ)が海中から御神体を引き揚げ、八幡宮としてまつり始めた故事に由来します。神事は境内舞台上で行われ、まず、羽織・袴姿の子どもたちが、トビウオが海面を跳ねる姿をあらわす舞を踊り、続いて鎧・兜に身を固めた武者が、海中から御神体を見つけて引き揚げる舞を披露します。

 河野通次(こうのみちつぐ)は、伊豫水軍の祖越智高縄城主河野通清の末裔で、伊豫の国(愛媛県)勝山城主でしたが、保元元年(1156)保元の乱に藤原頼長と共に崇徳上皇と結び、天皇方と戦い白河殿の夜襲に惨敗(ざんぱい)して、通次は残党の園田一覚、二見右京、小川甚六、片山藤蔵、柴崎甚平を率いて西奔、追っ手をさけながら、比の彦島におちのびてきました。

農夫漁夫を装い再起を謀って居りましたが、朝に興り夕に亡びる武士の生活に無常を感じとうとう望みを捨て、彦島に永住する決心を固めました。




 

 

 それから二十有余年後、植田治郎、岡野将監、百合野(ゆりの)民部、和田義信、登根(とね)金吾、富田(とみた)刑部が来島して住むようになり彦島開拓の祖となりました。

これを「彦島十二苗祖(びょうそ)」と云っております。

 

 

 保元二年(1157)十月のある日いつもの如く沖に出て漁をしていますと、一天俄にかき曇り里(今の迫町)から西南にあたる海上に紫色の雲がたなびき、その下あたりの海中より黄金色の如く光輝く物があるのを見て、通次等は不思議な思いで網を打って引き揚げると、それは一台の明鏡でありました。しかも鏡の裏には八幡尊像が刻まれていたのです。

 

通次等は大いに喜び、之は我ら一族の護り本尊であると、海辺の一小島の榊に一旦鏡を移し、その後祠を造営して鏡を納め光格殿と命名しました。

これが当八幡宮の発祥であります。

 

 又舊記に海底より光り輝く物があり、河野一族等鉾にて之を突きし八幡尊像の左眼がささりて賜りたり云々とありますが何れが真か確証しがたい。

 

 永暦元年(1160)十月十五日、先に小川甚六・柴崎甚平に命じて森の楠で刻ませた八幡尊像を光格殿に奉納し、通次は甲胄(かっちゅう)を着して弓を取り、郎党(ろうだう)、家人(かじん)に榊を持たせ社前に拝し、武運長久と一族の繁栄を祈りて後、大いに舞い踊り、我等が守り本尊「サァ揚らせ給う」と大声にてとなえたと云い、

故にこの一小島を舞子島と云うようになり、これがサイ上リ神事の始まりとなりました。




 

 正平四年(1349)二月三日夜、河野通次四代の孫・道久の代に八幡大神の御託宣(ごたくせん)がありました。

即ち「里より四丁、酉の方に平地あり、是れ我れが鎮座の地なり」と。

道久恐懼(きょうく)して直ちにこの平地を開き社殿を造営して、同年五月下旬竣工遷宮(せんぐう)の式を行い、社地名を宮ノ原と称しました。

これが現鎮座地であります。

 

「サイ上り」とは、通次が「さあ上がらせ給う」と大声にてとなえたと云う故事をそのまま伝えるものといわれます。

 

 

口碑伝説による

 

 所在地  下関市彦島迫町5丁目12-9

 交通JR下関駅からバス14分「東圧正門前」下車、徒歩3分

      下関 I.Cから車14分

 問い合わせ 彦島八幡宮 083-266-0700




蚕種祭

 今から約1800年の昔、中国から秦の始 皇十一世の子孫功満王(こまおう)が来朝帰化し、ここ豊浦宮(とよらのみや) にご滞在の仲哀天皇に蚕種(カイコの卵)を 献上したのが、我が国養蚕の始まりと伝えられています。

そこで異邦蚕種が我が国に初めて渡来して天皇に献上した地であることを記録し、後世に伝えるために、生糸の輸出が最も盛んであった昭和八年(1933)十二月に全国からの多額の奉賛金によって忌宮神社境内の現在地に養蚕関係者によってこの碑が建立されました。

 

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 『蚕種渡来之地』の碑文に、

 謹みて考えをめぐらすに、人皇第十四代仲哀天皇即位二年(193) 天皇の熊襲征討のため穴門國豊浦津に行幸あらせられ此の地に皇居を奠(さだ)めなさる之を穴門豊浦宮(あなととよらのみや)と名付けて申し上げる、今の山口縣豊浦郡長府町鎮座國幣小社忌宮神社の神域は即ち其の旧跡なり。

 三代実録によれば、仲哀天皇即位四年(195)に奏の始皇十一代の孫功満王(こまおう)が渡来して日本に住みつき珍しい宝物である蚕(かいこ)の卵を奉献したと云う、是れ異国の蚕の卵が初めて我が國へ渡来したことを証明する文献であって、しかも其の地は実に此の神域に外ならず、近頃山口県蚕糸業者並に有志者ともに思案し此の由緒ある地を記念しこれを後世に伝えんがため、ここに碑を建て其の由来を書きしるす 。

と記されています。




 

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 碑の高さは約六・三メートル、重さ約三十七・五トンで、自然石では山口県一を誇り、毛利家が外浦に置いていた秋穂産の大石を利用しました。

 題字は大日本蚕糸会々頭牧野忠篤、碑文は大日本蚕糸会山口支会長菊山嘉男知事で、昭和八年(1933)十二月二日忌宮神社宮司松島浅之助以下全神職の奉仕により盛大に除幕式が執り行われました。

 仲哀天皇四年(195)、秦の始皇帝から十一代の孫にあたる功満王(こまおう)が来朝したとき、蚕種をここ、豊浦宮(とよらのみや)で献上したという伝承があり「蚕種渡来の碑」の前で、毎年三月二十八日に、蚕種祭が行われ、昭和五十六年(1981)から毎年、生糸つむぎと機織りの実演が披露されています。

 

 日本三代実録(にほんさんだいじつろく)は、平安時代の日本で編纂された歴史書で、延喜元年(901)八月に完成した。六国史の第六にあたる。

清和天皇、陽成天皇、光孝天皇の三代、天安二年 (858) 八月から、仁和三年 (887) 八月までの三十年間を扱う。

編者は藤原時平、菅原道真、大蔵善行、三統理平。

途中、菅原道真が失脚して大宰府に左遷され、三統理平は転任して編纂から外れた。完成を報告したのは、藤原時平と大蔵善行の二人であった。

編年体、漢文、全五十巻。

 

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「三代実録」に、「仲哀四年(195)に泰の功満王(こまおう)が帰化入朝し、珍宝蚕種等を献じ奉った」とあります。

この記録は外国から我が国に蚕種が入ったことを示す最も古いものでしょう。

 仲哀四年(195)といえば天皇は穴門国豊浦津(現山口県下関市長府)で治世していました。そのときの仮皇居跡はいま忌宮神社の神域となっています。

 

出典  フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

参考文献 下関市教育委員会『下関の記念碑』山陽地区篇

 所在地  下関市長府宮ノ内町1-18

 交通   JR長府駅からバス7分「城下町長府」下車、徒歩5分

      JR下関駅からバス23分「城下町長府」下車、徒歩5分

 問い合わせ 忌宮神社 083-245-1093




濃霧の中で「しめなわ祭」

 関門海峡の航行が制限されるという深い霧の中で、壇之浦地区の海中に立つ烏帽子(えぼし)岩にしめなわを張り航海の安全と豊漁を願う「しめなわ祭」が、十二月十日地元赤間神宮の神職によって行われました。

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笛の音が流れる 11時40分開始

 

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笛の音が流れる 12時00分終了

 

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濃霧の中で粧いを新たにした烏帽子(えぼし)岩

 所在地  下関市壇之浦町6番

 交通   JR下関駅からバス12分「みもすそ川」下車、徒歩3分

 問い合わせ 赤間神宮 083-231-4138

 




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しめなわ祭: 航海の安全と豊漁を願う関門海峡の冬の風物詩

下関市壇之浦町にある烏帽子岩は、海難防止の守り神として地元の漁師たちから敬われています。

大石が倒れた後に起こった災難

昔、この大石が激しい潮の流れによって海中に倒れたことがありました。

大石が倒れて十日あまり経った頃から、壇ノ浦の町内に大雨、台風、火災、疫病と悪いことが続くようになりました。

町の人々は不安になり、毎日集まって相談しましたが、解決策が見つかりませんでした。

老漁夫の夢のお告げ

ある日、老漁夫は夢枕に狐が現れ、「大石を早く起こさねば災難は更に続くであろう」と告げられました。

大石起こしとしめなわ祭の始まり

老漁夫は町の人々に夢のお告げを伝え、皆で協力して大石を起こすことにしました。

町内の者が総がかりで作業を行い、ようやく大石を起こすことに成功しました。

人々は喜び合い、大石に注連縄を飾ったり、お酒を供えたりして、お祭りをしました。

災難の終焉と豊漁

大石を起こした後は、災害がなくなり、嵐もおさまって、魚がたくさんとれるようになりました。

しめなわ祭の現在

しめなわ祭は、この故事に由来する航海の安全と豊漁を願う祭りです。

毎年12月上旬に、壇之浦地区の海中に立つ烏帽子岩で行われています。

地元の赤間神宮の神職が岩に登って、しめ縄(長さ5メートル、重さ20キロ)を張り、お神酒などをまく神事です。

関門海峡の冬の風物詩として有名で、多くの人々が訪れます。

アクセス情報

  • 所在地:下関市壇之浦町6番?
  • 交通:
    • JR下関駅からバス12分「みもすそ川」下車、徒歩3分
  • 問い合わせ:赤間神宮 083-231-4138

朝鮮通信使

 朝鮮通信使は、室町将軍からの使者と国書に対する返礼であり、永和元年(1375)に足利義満によって派遣された日本国王使に対して信(よしみ)を通わす使者として派遣されたのが始まりです。


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 15世紀半ばからしばらく途絶えて安土桃山時代に、李氏朝鮮から豊臣秀吉が朝鮮に出兵するか否かを確認するため、秀吉に向けても派遣されています。


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 その後の文禄・慶長の役によって、日朝間が国交断絶となったために中断されました。その後、対馬藩の努力によって慶長12年(1607)、江戸時代はじめての通信使が幕府に派遣され再開となりました。


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 広義の意味では、室町時代から江戸時代にかけてのもの全部を指しますが、一般に朝鮮通信使と記述する場合は狭義の意味の江戸時代のそれを指すことが多いです。


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 通信使は将軍の代替わりや世継ぎの誕生に際して、朝鮮側から祝賀使節として派遣されるようになりました。慶長12年(1607)以来、文化8年(1811)の200年余りの間に計12回の通信使が派遣されていますが、文化8年(1811)に通信使が対馬までで差し止められたのを最後に断絶しました。


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 一行の人数は、毎回300〜500人の大使節団からなりました。

その中心は、李朝朝鮮政府が選び抜いた優秀な官僚たちで、随行員には美しく着飾った小童・その芸に秀でた楽隊・画員(絵師)・武官・医師・通訳などが加わっていました。


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 通信使は釜山から海路、対馬に寄港し、それから馬関(下関)を経て瀬戸内海を航行し、大坂からは川御座船に乗り換えて淀川を遡航(そこう)し、淀よりは輿(三使)、馬(上・中官)と徒歩(下官)で行列を連ね、陸路を京都を経て江戸に向かいました。


 馬関まつり(08.08.23)カモンワーフ会場で、で朝鮮通信使行列が再現されました。


出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

 所在地  下関市唐戸町6-1

 交通   JR下関駅からバス7分「唐戸」下車、徒歩2分

 問い合わせ 下関市観光振興課 083-231-1350

関門海峡の花火

 花火シーズン到来を告げるかのように打ち上げられた、亀山神宮夏越祭の花火大会。


 知名度が上がり多くの観客が集り賑わいをみせる、関門海峡花火大会。


 関門海峡の美しい夜景に彩りを添えた花火です。

夏越祭の花火大会(08.07.30)

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関門海峡花火大会(08.08.13)

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